一つの失敗からたくさんの教訓を学ぼう

この会場に通って今日で3日目です。前日と同じようにタクシーに乗り込み駅まで行きました。駅に着いたのは夕方の5時半過ぎでした。ここからホテルまでは列車に乗って1時間半ほどかかります。この会場での仕事も最後なので駅前で食事がてら軽く飲んでいこうということになりました。駅傍のビヤホールのドアをあけ、地ビールとソーセージの盛り合わせを注文しました。今回の出張のメインの仕事を終えたということで緊張感からも解放され実にうまいビールでした。当然ですが、そのあとに起きることは想像にもしていない二人でした。駅に入り、私たちの乗る電車が10番線から10分後に発車する事を掲示板で確認しました。階段を下りて、そのホームに着くと既に列車は入線していました。たしか真ん中あたりの車両に乗りんだと思います。これから1時間余りの列車の旅です。仕事が終わりおいしいビールを飲んだ私たちは、あしたのスケジュールというか、仕事が終わってからの夜の計画を話し始めました。しばらくすると、同じホームの反対側の番線に列車が入線してきました。私たちは特に気にも留めず、明日の晩はどこに行こうかという話にはずんでいました。そして、列車が発車しました。ここは、ドイツのハノーバ駅のホームです。私たちはハノーバメッセの視察という目的で出張に来ていました。メッセの視察は3日間でその日が最終日でした。今回の出張の楽しみは4日目以降でした。そうです明日からはパリです。当時会社が新しいサービスを模索していた関係でフランスの通信会社が始めたODVのサービスの調査をすることにしていました。なぜ、今列車に乗っているかというと、メッセが開催されるこの時期はハノーバ市内のホテルはまったく予約がとれなません。また相当な金を払わないと泊まれません。そのような必然的な理由で、私たちはハノーバーからICE(Intercity-Express)いわゆる特急で1時間半近くかかるハンブルグ中央駅のそばのホテルに宿泊していました。東京に泊まって名古屋まで新幹線で3日間通ったようなものです。

話は戻りますが、そうこうしているうちに、私たちを乗せた列車が発車しました。私たちは、4人がけのボックスシートに陣取りました。ドイツの列車には、ボックスの中央に設置されたテーブルにその列車の時刻表が置いてあります。つまり、その列車の停車駅と時間等が記載されている固有の時刻表が印刷物で用意され、それが座席ごとに置かれているわけです。初日に乗ったときは随分ときめ細かなやり方だと思いましたが、初めてでも何時にどこに着くのか理解できるのでとても良いサービスだと思いました。さて、ハンブルグ到着時間は何時になるか、確認しようと時刻表を見ました。表記はドイツ語と英語です。駅名と時間だけですから誰でもわかります。その時に,初めて何が起きたか理解しました。時刻表にHanburgという単語が見当たらないのです。目に飛び込んできたのはBerlinという単語でした。どうも私たちは電車を乗り間違えたらしいのです。ハノーバ駅でしっかり確認したはずなのに・・・と私は思いました。でも、よくよく考えてみると、1つのホームには両側に番線があります。例えば1番線と2番線は同じホームです。列車に乗り込むときに本当に10番線だと確認したのか、9番線ではなかったのか、でも二人とも迷うことなくこの列車に乗り込んでしまったではないか?そしてその時には全く気にも留めなかった反対側の番線に入ってきた列車が私たちが乗るべきHanbugに連れ帰ってくれる列車であると、理解したわけです。
ちなみにハンブルグはハノーバの北方向約180km、ベルリンはハノーバの東方向約300km。
方角を時計の針で表現することがありますが12時の方角に帰るつもりが3時の方角に歩いていた、というようなことです。しかもこの列車はICE(日本の新幹線のようなものなので)次の停車駅はまではあと40分。ということが時刻表から読み取れました。

さて、LLの話に移りますが、この失敗の理由は、“思い込み”でした。
ホームに来るまでは何も間違いはなかったのです。その列車内での反省会の結論は、二人とも確たる根拠もなく停車中の列車を、ハンブルグ行だと思い込んでしまったということしたで。相棒の言い分は、「だってTさんが自信ありげに迷いもなく乗り込んだので、私はついてきただけですよ」そして私の言い分「だって君が確認したかのように、この列車に乗ろうとしているようだったので乗っただけだよ」つまりお互いにお互いを信じて、迷うことなくハンブルグ行だと確信していたという、ダブルの思い込みの結末でした。

私はこの列車乗り間違えの失敗経験からいくつかの教訓を学びました。

【教訓1】「思い込みは人を誤った道に進める落とし穴である。」
これは、仕事の中でもプライベートの人間関係などでもよく経験することです間違った思い込みは、必ず、失敗の原因となります。大事な友達を誤解という思い込みで失った人もいます。たとえ確認することが難しい場合でも勇気をもって確認しましょう
【教訓2】「大事なことは他人に頼るな、自分の目、自分の耳で確認せよ」
プロジェクトマネジメントにも通じる教訓です。他人の報告や、不確かな情報だけで重要な判断をしないようにということですね。
【教訓3】「赤信号みんなで渡れば怖くない」はとても危険」
人は皆で同じ行動をしている時に何も考えなくなることがあります。気も大きくなります。そして物事の善悪がつかなくなる場合もありますね。しかし、赤信号をみんなで渡れば恐怖心はないかもしれませんが、違反です。危険です。トラックが突っ込んできても言い訳できませんし、場合によっては命を落としかねない悲惨な結果になります。今回も、もしも、一人で来ていたら番線をきちんと確認するなり、乗り込む前に列車の行先を確認し列車を乗り間違えることはなかったでしょう。二人という状況がこのような思い込みと安心感を生み出したのかもしれません。

さて、乗り間違えに気づいてからの顛末は・・・・・
私たちは本当にこの列車がハンブルグには行かないのか、まず車掌さんを探しました。ちょうど検札にきた若い車掌さんに聞いたところ、英語が全く通じずさっさと行ってしまいました(ドイツでは若者は皆英語が話せると聞いていたのですが、これも間違った情報だったようです)。彼はしばらくして英語の解る別の車掌を連れてきました。しばらく話しをするうちに私たちの一縷の望みは消えてしまいました。やはりこの列車はベルリン行でした。そして、次の停車駅まではあと30分余りかかること、次の停車駅で降りてハノーバまで戻り、ハンブルグ行の列車に乗り換えるしかないということ、そして次の停車駅からハノーバ行の列車が何時でるのかはその場ではわからないこと、を私たちは理解しました。しばらくして停車した駅はICEが停まるにしてはやけにさびしい、薄暗い周りが野原のような印象でした。駅員を探してハノーバ行の電車の発車時刻を聞くと、あと1時間くらい後だと告げられました。やっと乗ることができたハノーバ行の列車はいわゆる普通列車でした。車内もなんとなく汚れていて、ハノーバまで何駅か停まり2時間近くの時間がかかりました。そこからしばらく待ってやっとハンブルグ行のICEに乗ることができました。結局ホテルに着いたのは12時近くでしたが、一応その日のうちにリカバリーできたということで、明日のパリの夜を思いながら二人で祝杯をあげた次第です。

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「To doは目的に準じる」という当たり前だけど難しいこと・・・

「やることが多すぎるんだよなぁ・・・」

といつもは不満たらたらなのに、「この数日中にやらなくてはならないTo do全て消化し切ってしまう」ようなことがたまに発生すると、何だかとても不安になり、うろたえることがあります。

こんな気持ちになる度に、「もしかしたら自分は、やることが目の前に山と積まれている状況がしんどいのではなく、逆にそれを望んでさえいるのではないだろうか」と感じます。ベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み立てるロボットは、何のためにその部品を組み立てているのか知りません。同じように私も、目の前に積まれていくTo doにトリガーをかけられ、イベントドリブンで処理する作業に埋没することで、「果たして何のためにこのTo doをやっているのか」「自分が今やるべきことは本当にこれなのか」といった命題を忘れてしまっているのです。いや、それ以上に、忘れている状態がある意味、心地いいからこそ、目の前のTo doが無くなった状況に対して怖れを感じるのではないか、と思うのです。

ドラッカー教授は、「To doの緊急度と重要度とを明確に区別し、自らの時間を意識的に管理しようとしなければ、“緊急ではあるが重要でないこと”に時間のほとんどが費やされてしまい、“緊急ではないが重要なこと”にかける時間がなくなってしまう」と喝破されました。思うに、“緊急なこと”は誰でもすぐに分かるのですが、“重要なこと”を識別するのはとても難しいのです・・・なぜなら、「その“重要なこと”が重要である根拠」は、ゴールや目的の視点からのみ正当化され、説明可能なのであり、そしてそのゴールや目的は、自分自身の価値観から見出されるものだからです。「“重要なこと”は何か」に思いを馳せることは、少なくとも中長期に渡る目的を問うことであり、ひいては自らの価値観を見つめ直すことでもあります。重要度を考えずに目先のTo doに埋没する、すなわち“緊急である”という理由だけで高い優先順位を与えて行動することは、「一仕事した」というある種の充実感を伴う分だけなおさら、「本質的ではあるが突き詰めるのは苦しい人生の問いから目を逸らさせる」危険な誘惑なのかもしれません。

「この日にやらないといけないから」といったルーチンワークとしてのTo doではなく、「やると約束したから」という義務としてのTo doでもない、「ミッション→ビジョン→目的→目標→活動」という本来あるべき筋道を辿ったTo doに、今更ながら、しかし今こそ、取り組んでいきたいと考えています。To doの消化が怖れではなく、目的の達成に近づいていく喜びだと感じられた時こそ、自分が自分のミッションを正しく生きることができている証のような気がしています。

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自信は人から与えられ人に与えるもの?

「セルフイメージ」とは自分をどんな人間と思い込むかということだと思います。もし悪い固定観念があれば、それが改善されることが成長の条件であると、会社の人事研修で聞いた覚えがあります。「自信」もその「セルフイメージ」の中に含まれる部分が多いように思われます。

6月と12月に千葉県の老舗の海苔屋からとても美味しい乾海苔が毎年送られてきます。ある出来事以来ずっと続いています。途中で何度かお断りをしてみたのですが、変わらず続いているので、たいへん有難くいただいています。ここで、その経緯をお話します。

40代前半のとき、私は営業所長に任命されました。プロジェクトリーダーで技術者だった私には、いちばん厭な管理職だったのですが、会社の命令であり断るのは無駄な抵抗だとわかりました。

しばらくたったある時、寡黙で仕事熱心な若手セールスマンが、家業を継ぐという理由で辞表を出したと伝えられました。若手のホープとして私は大いに期待していた社員なのでとても驚き慌てました。他の社員に聞くと、どうやら私の配下の課長が何かにつけ彼をひどく叱責し、本人が自信をなくしたというのも一因のようです。たいへんなことになりました。

その社員の自宅へ駆けつけ本人に会い話を聞きました。そしてお店で働いていた親父さん(社長)を呼んでもらいました。この社員がいかに有能な人材で、会社がいかに期待しているかということを、具体例を挙げて全力で親父さんに説明しました。そして家業を継ぐのは20年ぐらい待って欲しいと懇願しました。

親父さんは考え込んだあと、重い口を開きました。「倅が会社にそんなに期待されていたとはつゆ知らず、たいへん申し訳なかった。それを聞いてとても嬉しい。だが先週決めてしまったことで、残念だがもう取り返しがつかない。」 実に残念なことです!社員は私の隣で涙を流していました。

見込んだ社員を引き戻したい一心で行ったことが、彼に大きな自信を取り戻させたことは、鈍感な私にもすぐにわかりました。数年後、その老舗で働いていた彼の結婚式に招かれ祝詞を述べました。その後お子様が誕生しすくすく育っているという手紙をもらい自分のことのように嬉しくなりました。その後彼は船橋のその大きな老舗を継ぎました。それ以来海苔を送ってくれているのです。

これだけですとなんの変哲もない話になるかもしれません。しかし、一般管理職に全く自信のなかった私が、部下に自信をもたせることができたのに気付いたのです。このことが逆に、自分の固定観念となっていた管理職としてのセルフイメージを変えたのに気づいたわけで、一般管理職に少し自信がつくきっかけになった出来事でした。

つまり、自信が持てたことに感謝すべき側は、こちらでもあったわけです。人に自信を与えることで、自分に自信がつくという大事な事実に気づきました。それからは、不器用ながらも人に自信をもたせることを時々考えるようになり、相互に自信を増す現象があることに確信をもちました。そこをLessons Learnedとして伝えたいわけでした。もちろん自信の種類によることかもしれません。ご意見をお待ちします。

セルフイメージがいかに他人に影響されやすいものであるかという一例でもあると思います。加えて、他人に影響されて固定観念となってしまっている自分自身の悪いセルフイメージは、払拭できるということの証しでもあります。ごく最近になって、Wayne Dyersという人の書籍に出会い、そのことを改めて思い出した次第です。

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自分自身に対する褒美の工夫でやる気UP

組織のプロジェクトに関して、携帯電話の新製品開発を例にあげてみます。開発が計画どおり進み製品を出荷し販売も好調になれば、プロジェクトに携わってきたメンバーは、お客さんや会社の経営層から褒めていただき、表彰され、給与のアップといったことが期待できます。それに対して個人のプロジェクトの場合は、外からの報酬は期待できないのですが、資格取得や個人旅行、ダイエット等の目標を達成したこと自体が自信となり、そのことが自分に対する褒美ではないかと思われます。

シャーロックホームズの冒険ドラマ「まだらの紐」の冒頭場面で、女性がシャーロックホームズに、困った表情で調査の依頼に来た時に、今はお金がないが、結婚したら独立してお金が入り、そのときお礼するというシーンがあります。その時シャーロックホームズは、報酬は自分の仕事そのものと言い切っています。このようなお金以外の褒美こそ、個人のプロジェクトを遂行する原動力となり、その点に着目することが重要です。

お金以外で、やる気アップに結び付くものはどんなものがあるでしょうか? 自身の例ですが、仕事や趣味、資格取得などの目標を達成することで、達成感を味わうことです。仕事など何かすることが、自身のキャリア開発に役立つといったこともやる気アップに繋がります。他に考えられることは自分の成長につながると意識できることもそうです。また仕事を通じて、まわりの人やお客さんから喜んで頂き、評価された時も、他人に役立ったという充実感が味わえます。

組織の中で仕事を任される場合、組織の目標があり、その中に個人の目標があります。個人にとっても、仕事の関する目標と仕事以外の目標があります。ふたつの目標が、それぞれ異なれば、仕事と仕事以外で、ふたつの目標を追いかけなければなりません。もし、ふたつの目標を工夫してひとつにできれば、やる気もがぜん変わってきます。組織における個人の目標と個人のキャリア開発の目的や目標の重なりを多くし、的を絞った目標設定を行うことで、常に頭の中で目標を意識することができるからです。このような心の面の褒美に着目することが大切ではないでしょうか。

© 2015Mitsuhiko Tokunaga, All rights reserved.

窮すれば通ず。あきらめずに頭を使え

今から、25年くらい前の話です。その日は、朝から胸騒ぎがして、胸に何かつっかえたような気分でした。でもその理由がわからないうちに、会社に行く時間になり、とりあえず家をでました。会社に着いて、いつも通りまずコーヒーを一杯注いで、それをもってたばこ部屋に行きました。一服しながらいつもの朝の常連と雑談をし、その日の仕事の段取りを頭の中で組立てました。
席にもどりメールの確認を始めた矢先、電話が鳴りました。上司のA部長からでした。「あの件はどうなったのか」第一声です。A部長には大小取り混ぜて色々な宿題をもらっていましたので一瞬どの案件か戸惑いましたが、たぶん、ABC社との共同開発に関する覚書の締結の件であると気づき、「その件はN担当部長に任せています。確か一昨日、先方と最終確認を完了した旨報告を受けています。こちらの希望条件で進んでいます。詳細はあとで、メールで報告しますが・・・」と私。
「実は、それはそれで進めてもらってもいいのだが、実は、先方の・・・・・・ということなので、至急に、教えてほしいのだが、今 N担当部長はいるかね。私のところに今すぐよこしてほしいが・・」とA部長。あたりを見回すとN部長は見当たりません。彼の部下に聞いたところ「N部長は年休で休んでいいます」との返事。それならばと、彼の自宅に電話しました。しかし奥様から聞いた次の言葉で、私は、万事窮すとなってしまいました。「主人は、本日、大学時代の後輩の結婚式で朝一番に、広島に出かけました。・・・・特に指定券はとっていなかったようですので・・式場はXXXXですが、確か開始時間は、午後の3時からといっておりました。式場の電話番号は・・・」
今ならば、携帯電話で連絡がすぐに取れるので、何も問題がありません。直接電話すれば済む話です。しかし四半世紀も昔の当時はそれは夢物語。どうやって彼を捕まえて、聞き出すのか、式場に連絡して連絡を待つしかないのか、でも、それでは間に合わない。どうしようか・・何か手段はないのか・・・お手上げなのか・・・朝の胸騒ぎの理由はこれだったのかと、一人で納得してしまいました。
しかし、これで終わりではないと、もう一度、N部長の自宅に電話しました。何とか連絡を取りたいという思いでした。奥様から自宅を出た時間と、解る範囲での行動予定を教えてもらいました。結局わかったことは、朝の8時半ごろに自宅を出たということだけでした。電話を切ってから私は総務からJRの時刻表を借りてきました。そして新幹線のページをめくり新横浜と東京発の新幹線の時間を調べました。私の作戦は、新幹線の車内呼び出しを利用することでした。まず彼の自宅からの最寄駅である新横浜と、東京駅までのどのくらいかかるのかを推定しました。広島まで行くには横浜に止まらない東京駅から乗車した可能性もあるからです。そしてそれぞれの駅から彼が乗車した可能性のある列車の候補を選びだしました。そこまで準備してからJR東京駅に電話をし予めメモッタ列車番号に対して呼び出お願いしました。最初は1本しか受けてくれない雰囲気でしたが、しぶしぶた複数の列車で車内放送してもらえることになりました。なお、会社名は車内放送できないということで「ZZ市XX町のNさん、至急会社にお電話ください」となりました。。それから10分も立たないうちに、自席の電話のベルが鳴った、東京駅発の新幹線からNさんがかけてきた電話でした。彼の開口一番の言葉は次の言葉でした「なぜ、私がこの電車に乗っていることが分かったのですか。妻にも告げていないし・・・」。 途切れがちの電話でしたが、要件を手短に伝え、必要な情報を教えてもらうことが出来ました。

この出来事自体は些細な事件かもしれません。連絡が取れないと思った瞬間に諦めてしまうこともできましたしそれで許されたと思います。たまたま、車内呼び出しを思いついたからでLLでもなんでもないと思う人もいると思います。しかし私がこの事件で学んだことはその後、私を何度も窮地から救ってくれました。「窮すれば通ず。あきらめずに頭を使えばなんとかうまくいく」と。

「ジョホールバルの歓喜」から

シンガポールへの出張が決まったとき、歴史的なサッカーゲームを観戦できるのではという希望が湧きました。1997年11月のことです。マレーシアとの国境を越えた隣町・ジョホールバルで、日本代表がイラン代表と対戦します。そこで勝てば、フランスで行われるワールドカップの本選に、日本代表の初出場が決まる大一番です。
本業の出張準備を棚上げし、入場券を求めて東京都内を奔走しました。が、結果は芳しくありません。日本で売られる切符の数が少ないうえ、手配時期が遅すぎたのです。やむなく、シンガポールの現地で探すこととし、現地に赴きました。
試合の前日にシンガポールに着くと、さっそくホテルのコンシルジェに相談しました。彼は何軒かのチケットハウスに連絡を取ったあとで、脈ありという店を見つけてくれたのです。
雑居ビルの一室にあるチケットハウスを探し当てると、切符があるといいます。しかも、日本で売られているよりはるかに安いのです。狂喜して購入すると、販売員に釘を刺されました。「マレーシアへの入国には、パスポートの有効期限が6か月以上あることがルールです。その点、お忘れなく」
ホテルに戻ってパスポートを調べると、有効期限は3か月しか残っていません。
困りました。今からパスポートの有効期限の延長はできません。日本のパスポートは申請から発行まで10日かかります。しかし、観戦をあきらめるのは悔しいです。なにしろ日本代表のワールドカップ本戦初出場が決まる瞬間をスタンドから見届けられるかもしれません。
丸一日思案しました。考えてみれば、これまで20数カ国に行っていますが、入国時に「パスポート有効期限」を聞かれたという記憶は1度もありません。マレーシアにはすでに5-6回は入国しています。それに、「天の配剤」という言葉もある……と思い定めて、ともかく観戦に向かうことにしました。
ジョホールバルはシンガポールからマレー鉄道で1駅ですが、汽車は国境で一時停止します。乗客はそこで出入国の手続きをしなければなりません。指示されるままに下車し、ホームの一角にある窓口に向かいました。手続きを待つあいだ、パスポートの有効期限が頭から離れません。やがて渡された入国書類を見ると、はたして「パスポート有効期限」の記入欄があります。こんな欄はこれまで記憶にありません。コンチクショー。さてどう記入するか? すこし逡巡しましたが、意を決し、すこし先の期日をボールペンで勝手に書き込みました。それからが落ち着きません。もし係員に引き留められたらどうするか?「頼むから見逃してくれ」と言うか、「この1戦を観るためにわざわざ日本から来た」と訴えるか、それとも、10ドル札を提示して…。
やがて順番がきて係官の前に立つと、インド系の中年女性がのんびり書類の処理をしています。私のパスポートと入国書類を眺めて、パソコンに何か入力しています。手書き処理ならともかく、コンピューターでは、パスポートと入国書類の違いが立ち所に判明します。ここでばれたら、おれは国際犯罪人に名を連ねることになるのか? 処理を待つあいだ、心臓はドッキンドッキンと鳴り通しです。こんな心臓の鼓動を経験するのは、小学生のとき海岸の埠頭で小さな魚を初めて釣り上げたとき以来かもしれません。
やがて彼女は一連の処理を終え、パスポートにハンコを押して返してくれました。
こころ優しい係官(?)のおかげで、スタジアムまでいくことができました。そして、岡野選手の決勝ゴールをスタンドから見届け、深夜、歓喜の中をシンガポールのホテルに帰り着きました。するとくだんのコンシェルジェは「おめでとう。次はフランスに行くんだね」と言ってくれました。
そこで、教訓。「入国書類は、ときどきごまかしましょう」

小林誠の講演を聴いて

筑波大学の大講堂で講演がありました。講演者は高エネルギー物理学研究所の小林誠先生です。先生は2008年に小林・益川理論でノーベル物理学賞を受賞しています。なんでも、クオークが6つあるということを理論的に予言し、その後の実験で証明したそうです。「対称性の破れの理論」ともいうそうです。
自宅から車を運転し、15分ほどで会場に着きました。大講堂は満員で、門外漢の私には少し敷居が高く感じられましたが、張り切って最前列の席に座りました。
紹介のあと演壇に立った先生は、序論で「今日は2つの軸を中心にお話します。素粒子論と特殊相対性理論です」とおっしゃいます。どちらも、何のことやら皆目、見当もつきません。
我慢して聞いていると、説明は進められ、やがて本論に入りました。そして先生は、正面のスライドに複雑な数式をいくつも続けざまに映し出します。その後で、行列式らしきものを大写しされました。全く理解できません。
すると先生は結論としておっしゃっいました。「これは簡単な数学です。これを解くと、クオークは6つなければならないことになります」。最前列の私には全く意味不明です。
講演が一段落し質疑応答の時間になると、驚いたことに、聴衆である学生たちからいくつもの質問が出されます。先生は1つひとつ丁寧に答えていらっしゃる。質問・回答のどちらも、私にはチンプンカンプンです。私は心の中で密かにつぶやいていました。「聞く方も聞く方だが、答える方も答える方だ」と。
講演の最後に先生は言われました。「宇宙の中の物理現象には、解明されていないものがまだたくさんあります。諸君の中で志ある人が、そこに挑戦され、解明されることを期待しています」
会場は拍手に包まれ、講演は素晴らしい雰囲気の中で終了しました。
私はその余韻に浸りながら、車を運転して帰宅しました。超一流の叡智による、全く素晴らしい講演でした。そういう講演を聞けたのは本当にラッキーなことです。もし心残りがあるとすれば、たしかに素晴らしい講演でしたが、その序論・本論・結論のどこをとっても、私には全く理解できなかった、ということだけです。
教訓(2択)
① 何もわからない講演を聞くは時間の無駄なので、やめましょう。
② 自分には何もわからない世界があり、そこですばらしい業績を上げている人がいます。こういう事実と知ることは、自分を謙虚にしてくれるとともに、世の中の広さを教えてくれます。

行ってまいります

あなたのご家族は、外出する人と送る人がどんな挨拶を交わしていますか。
「東京物語」を筆頭に、小津安二郎の映画を何本か連続して観て、日本語の会話の美しさに感じ入ったことがあります。大女優・原節子が出演しており、そこでは、外出する人は「行ってまいります」と言い、送る人は「いってらっしゃい」と言っています。さらに、佐田啓二・岸恵子の「君の名は」と、音羽信子の「原爆の子」も観ました。どちらでも出かける人は「行ってまいります」か「行ってきます」と言っています。ここに挙げた映画は、どれも白黒映画です。
思い返すと、私たちは小学校に入学したとき、登校時には「行ってまいります」と挨拶するように教わり、そのとおりにしていました。
10年ほど前、次男が中学生のとき、ある朝、登校前に玄関先で家内と何か話しています。放課後の予定の相談をしていたようです。会話が一段落すると、彼は母親に「じゃあね」と挨拶し、自転車に飛び乗って学校に向かいました。
これは見捨ててはおけません。私は自宅の窓から大声で次男を呼び戻しました。彼は30メートルばかり進んでいましたが、素直にとって返してきました。ここで断固たる姿勢を示さないと父親の沽券にかかわります。私ははっきり言い渡しました。
「子どもが学校に出かけるとき親にする挨拶が『じゃあね』とはけしからん。ちゃんと、『行ってまいります』か『行ってきます』と言え」
次男は神妙に聞いていました。しかし、しまった。彼の目が笑っていいます。私の説教が終わるやいなや、次男は「わかった、じゃあね」と言い残し、自転車に飛び乗って学校に向かったのでした。
教訓(3択)
① 白黒映画を観るのはやめましょう。
② 自転車に乗った人を呼び止めてはいけません。
③ 人にアドバイスをするときは、くれぐれも慎重にしましょう。

不心得な了見

日本語で出版されている本のなかには、英語からの翻訳が相当数あり、日本の読者に大きなインパクトをもたらしています。私も、『老人と海』(ヘミングウェイ)、『エリアス随筆』(ラム)といった文学書から、『ビジョナリー・カンパニー』(コリンズ)、『最後の授業』(ランディ・パウシュ)などの経営書まで、翻訳書の恩恵に浴しています。翻訳者諸氏には、衷心より感謝を申し上げます。
最近でも、『老人と海』の福田恒存氏や『最後の授業』の矢羽野薫訳の名訳に舌を巻いています。具体的には、次のようなくだりです。

“Everything about him was old except his eyes and they were the same color as the sea and were cheerful and undefeated.”
「この男に関するかぎり、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。」(『老人と海』福田恒存訳)

“The brick walls are there for a reason. They’re not there to keep us out. The brick walls are there to give us a chance to show how badly we want something.”
「レンガの壁がそこあるのには理由がある。僕たちの行く手を阻むためにあるのではない。その壁の向こうにある「何か」を自分がどれほど真剣に望んでいるか、証明するチャンスを与えているのだ。」(『最後の授業』矢羽野薫訳)

『老人と海』の福田訳に注目しましょう。原文の ”except his eyes” という説明句を、「ただ眼だけがちがう」と、独立した1文にしています。これはすごいと思います。もしここを、われわれが学校で教わったとおり「眼をのぞいて…」とやったのでは、福田訳のような強烈なアピールは望めなかったのではないでしょうか。
『最後の授業』の矢羽野訳でも、原文の ” something” に言葉を補足して、“その壁の向こうにある「何か」”としています。さらに、”a chance to show” を「見せるチャンス」という平板な表現にせず、「証明するチャンス」としています。2つの工夫で、原文の真意が見事に浮き彫りにされています。
私事であすが、英語から訳された本を読む際、重要なところには傍線や下線を引いたり、マーカーでハイライトしたりします。が、それとは別に、気になった訳語に波線を付し、欄外に「Eng」とか「レ」など書きつけます。機会があれば原書の英文をチェックしてみたいという印です。翻訳者の努力の跡を偲んでみようという意図もあります。
翻訳の世界では、「10人の翻訳者がいれば、10種類の訳文がある」といいます。(経済学の世界では、「10人の経済学者がいれば、経済政策は11ある」というそうです。)そこで、ある著名な日本人翻訳者がエッセーで説いていることを思い出しました。「翻訳本の日本語にいぶかしく思うところがあっても、原書の原文にあたってみようなどという『不心得な了見』は起こさないように」
しかし今やアマゾンなら、原著を2-3日で入手できるようになりました。そして、波線を付した日本語訳の該当部分を原著で探し当て、翻訳者の苦労を追体験するのは、思いがけず、楽しい作業であることに気づきました。かくして、この「不心得な了見」は、今後も私の読書のある位置を占め続けるでしょう。
教訓:「不心得な了見」は楽しいです。

適度な図々しさ

九州出張を機に大分県中津を訪れました。プロジェクトマネジメントの関係者に中津出身の方が2人おられますが、同地には福沢諭吉の「独立自尊」という言葉を大書した碑が立っています。お2人とも幼少期に、毎日その碑を見て育ち、少なからぬ影響を受けている、と聞いていたからです。
JR中津駅に降り立つと、真正面に福沢の銅像が佇立しています。さっそく、福沢の旧居に行ってみました。旧居のすぐ脇に稲荷があります。少年の福沢が、いたずら心から、神体を開けて中の石を別の石ころと入れ替えておいたときのことです。初午なって、周りの人がのぼりを立て、太鼓をたたき、お神酒をあげて拝んでいます。それを見た福沢が「ばかめ」と1人嬉しがっていた、という場所です(『福翁自伝』)。
反対側に記念館が併設されていて、福沢ゆかりの展示物が多く見られます。その中の1つ「願書」に目を奪われました。当時、大坂の適塾に留学していた福沢は、チフスに罹って中津に一時帰郷しています。再度大坂に出かける際、中津藩庁に留学の願書を提出しました。その中で、目的を「砲術」の修行に出かけると書いています。適塾の緒方洪庵は医者であるにもかかわらず、です。展示の説明では、「蘭学」のための留学は当時の中津で前例がなく、認められなかったからだとのことです。ここで、もし福沢が「蘭学」の勉学のためと生真面目に書き、その結果、留学を拒否されていとしたら、『学問のすすめ』をはじめとする、福沢の啓蒙活動は、かくも広汎・多大な影響力を持ったなかったことでしょう。
積極性とは「適度な図々しさ」のことかもしれません。福沢が「砲術」の修行と申請したのも、福沢の「適度な図々しさ」の発露であったのではないでしょうか。
教訓:積極性とは「適度な図々しさ」のことかもしれません。