カテゴリー別アーカイブ: V 努力の集中と最善性の追求

論理より 心を込めたら 良い結果


マイコン大好き人間の私は、年甲斐もなく最近はIoTのプロジェクトにどっぷり漬かっています。ですが、試作機の作成には基板作りや、あまり好きでない細かいはんだ付けがつきまといます。長く続けて作業すると、ついいい加減なはんだ付けをして、テストの結果は時間の浪費と「はんだ吸取り」、そして再作業につながります。

過去にそういうことはあまりなかったのに、長期間続けたためのマンネリ化でしょうか、一度そうなると作業をバタバタと急ぎ、悪循環に陥ります。そして遂に締切りに追い詰められて、やっと気づきました。「早く終えたい一心で、作業を丁寧にしてない!」Haste makes waste.*そのものです。

気づいて「急がば回れ」に徹することにしました。「どっちみちこの一晩しかないから徹夜も覚悟。念入りに作業しよう。」と腹が据わり、まずは周囲をきちんと片づけそして再開です。

 

作り直した基板で、1枚約80か所のはんだ付け作業です。気持ちを引き締めて始めました。作業を丁寧に間違いなくやるというわけです。少しでも心配な箇所が出れば、その場で完全な形にしてから次へ行きます。

そうしているうちに、嫌な作業がなぜか楽しくなるのに気づきました。初心に帰ったような気分です。同じペースで4枚を最後まで続け、結果的にはどれも欠陥ゼロで完成、気持ちよく一発稼働。おまけに睡眠も短時間とはいえとれました。

作業に心を込めるとは、まさにそういうことでした。それ以来、面倒だった作業が気持ちよくできています。一事が万事で、「嫌がらず落ち着いて丁寧にやることは、仕事を楽しくする大事なコツ」ですね。共同作業でも個人の作業でも、目の前の仕事に心を込めることが大切、ということを、改めて思い起こした出来事でした。

*注)”Take time for all things: great haste makes great waste.” (Benjamin Franklin)

©2023 Akira Tominaga, All rights reserved.

マルチステージの時代に

寿命の伸びは世界各国で顕著です。この60年ほどを見れば次のグラフのようになっています。日本では1947年から詳しい統計がとられていますし、欧州各国では19世紀半ば、または1920年代から作成されてきたのに驚きます。公開されている“Human mortality database”に蓄積された38か国のデータの中で、上昇傾向以外の複雑な動きはロシアだけで他に例外はみあたりません。(図が見づらい時はクリックしてご覧ください。)

例えば2007年に生まれた人の平均寿命は軽く100歳を超えるとの予測がされています(注1)。ところが先進国の人口ピラミッドは次のような形で、高齢者をささえる若年層が不足しています。改善の努力が先進国で行なわれてきましたが、ご承知のとおり日本は先細りが直っていません。ここに示しませんが、例えばインドやマレーシアでは各国の寺院の屋根のような形、アフリカ諸国では下辺の広いピラミッドです。(図が見づらい時はクリックしてご覧ください。)

若年層が少ないと平均寿命に影響するのかちょっと気になりますし、イスラエルの人口構成がきちんとしているのにも驚きます。少し脱線しますが、疑問を解くため年齢別の死亡率を調べたところ、高齢層と若年層では桁違いの差があり平均寿命に殆ど影響しないことが分りましたので更新しておきます。下の図は日本とイスラエルの比較です。

要するに平均寿命は純粋に伸びています(米英等で最近になって横ばい気味なのが気にはなりますがきっと原因があるでしょう)。仕事時代より退職後が長くなっているでしょうし、それを支える長い「年金生活」という発想は成り立ちにくくなるでしょう。

人生が1)学び、2)勤め、3)隠居の3ステージから成るという過去の観念は捨てる必要があるでしょう。ステージが混じり繰返すような「マルチステージ」(注1)の人生が増えるというわけです。日本では15歳未満と65歳以上が被扶養層と定義されていますが、70歳、さらに80歳まで仕事をするのが常識となるかもしれませんし、年齢だけでの差別はなくしていくべきと思えます。

最近のパーソナルPMコミュニティの会合で、メンバーの徳永光彦さんがマルチステージを取り上げられたのに触発され、筆者を含め多くのメンバーが現代の人生におけるその重要性に改めてフォーカスしています。一人では気づきにくいことも皆と検討すると気づくことの典型でしょう。

若手メンバーの柳沢大高さんは、スキル修得に関する執拗な研究成果の一端を、一般向け書籍として書かれています。8月23日に発行されることになりました。マルチステージへ向けた「学び」へ正面から向き合うための格好の書となることを期待しています。

改めて身近な人たちを見回せば、マルチステージを実践している人は既にたくさん居るのに気づきます。皆様の周囲にもおられるでしょうし、考えてみれば筆者もその仲間です。それが続けられるためには健康が第一ですし、自分で考えるミッション(目的の構造化)、柔軟な思考や新しいことを受容れる姿勢などがますます大事になると思います。

パーソナルPMコミュニティでは2018年10月14日(日)の午後、「パーソナルPMシンポジウム2018」(参加無料)を都内で主催することとなりました(満席となりお申し込みを締め切らせて頂きました)。

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その中で徳永さんのマルチステージ実践に基づく発表も予定されています。投稿が長くなり過ぎるため、「パーソナルPMシンポジウム2018」については後ほど別投稿としてご案内したいと思います。パーソナルPMに少しでもご興味をお持ちになられたら、どなたでも気楽にご参加いただけるようお待ちしています(すでに満席となりお申し込みを締め切らせて頂きました)。

(注1)Lynda Gratton & Andrew Scott, The 100 year Life,2016. 池村千秋訳、ライフシフト、東洋経済新報社、2016.

©2018 Akira Tominaga. All rights reserved.

 

禅に学ぶパーソナルPM

2016年10月、上野の東京国立博物館で特別展「禅―心をかたちに-臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念」が開催されていました。友人と連れだって週末に立ち寄ったところ、なかなかの盛況ぶりでした。

禅は仏教の宗派の一つで、仏教の教えの中心である「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」のうち、特に「定」(=心を鎮める、収める)を重視しています。ヨガに起源をもつ坐禅は、「定」を得るための方法論と言えます。昨今人気の「マインドフルネス」も、ストレスを軽減し集中力を高める効果があるとして、米国のIT企業が社員教育に採用するなどしたことから日本でも注目されているようです。アップル創業者スティーブ・ジョブズがかつてカリフォルニアで曹洞宗(日本の二大禅宗の一つで、中国に留学して禅を学んだ日本人僧侶・道元を開祖とする宗派)の僧侶、乙川弘文老師の教えを受けていたというのも、マインドフルネスの人気に影響したことでしょう。

原始仏教の姿をより濃く残し、中国・老荘思想の影響を受けたとされる禅は、宗教というより哲学に近いとも言われます。じっさい、禅宗では「あの世」や「幽霊」、「地獄」というものを信じませんし、特定の「神」や開祖に依存することもありません。あるのは「己事究明」=自らを知る、のみです。

禅宗を含む日本仏教が誤解されがちな点に仏教=葬式用、という認識があります。たとえば戒名についても、お坊さんが儲けるための方便、との疑いを持ってしまいがちです。しかしそもそも戒名をつけるというのは仏道の修行者になるということで、本来ならば生存中になっておくべきところ、それが叶わなかったので、死出に赴くにあたり最期に仏道修行者となり戒名をもらう、という意味があります。ここで、「あの世」「地獄」を信じないなら亡くなった後のことを心配するのはおかしい、ということになります。それでもそうしたことをするのは、葬儀自体、故人のためだけのものではなく遺族をはじめ故人を見送る者たちのためのものでもあるからです。戒名をつける、あの世で困らないようにと棺にお金を入れる、あるいはいつまでも一緒にとの願いから生前の家族写真を入れる、というのも、それによって遺族自身が慰められる行為と考えます。じっさい、日ごろ迷信めいたことは一切信じていなくても、親しい人や可愛がっていたペットを亡くした時など、「あちらにいる」と思うことでなんとなく気持ちが安らぐ経験をしたことがあるのは私だけではないと思います。同じように、「幽霊」を信じないからと言って、それを見た、と言っている人を頭ごなしに否定するようなこともしません。その人が見たと認識するなら、その人にとっては見えたのでしょう。「幽霊」なんて迷信だ、などと自分の考えにこだわるような事はしないのです。禅では執着すること、とらわれることをもっとも嫌うからです。さらに言えば執着しないことにも執着しません。ここまで来ると禅問答の世界に感じられてきますが、言わんとするところはわからなくもないように思います。親しい人を亡くして悲しんでいる人を慰めることが善行であるならば、「地獄」「幽霊」の有無など二の次です。なすべきことをなすために自由自在、なのです。

時間についても同様です。坐禅中は過去にも未来にもとらわれず、「即今只今(そっこんただいま)」といって、その瞬間瞬間に意識を集中させることを良しとします。このことは「捨てる」とも表現されます。すべてのとらわれを捨てて坐禅する、日常生活であれば目の前の仕事に集中するということでしょう(これはラーキンが提唱するインスタントタスクにもつながるかもしれません)。

そして、この「捨てる」作業がストレス軽減と集中力増進につながるようです。仏教的には、こうして得られる心の落ち着きが他人への思いやりや勇気となり、その結果、より良い生き方ができるとします。そして日本仏教を含む大乗仏教ではさらに、自分だけでなく周りの人もそうした生き方ができるよう助けることで国の平安が得られる、とします。

そのような大乗仏教的な考え方は大げさとしても、自分を知り、自分を信じ、さらに自分の心が何かにとらわれることを戒める、というのは、パーソナルPMの実践においても役に立つと思っています。

※ここで述べた「禅」に関する考え方はあくまで私個人の理解によるものです。より正しい理解と実践を求める方は、各種ある禅の入門書を読むか、坐禅会を開催しているお近くの禅寺に足を運ばれることをお勧め致します。

不心得な了見

日本語で出版されている本のなかには、英語からの翻訳が相当数あり、日本の読者に大きなインパクトをもたらしています。私も、『老人と海』(ヘミングウェイ)、『エリアス随筆』(ラム)といった文学書から、『ビジョナリー・カンパニー』(コリンズ)、『最後の授業』(ランディ・パウシュ)などの経営書まで、翻訳書の恩恵に浴しています。翻訳者諸氏には、衷心より感謝を申し上げます。
最近でも、『老人と海』の福田恒存氏や『最後の授業』の矢羽野薫訳の名訳に舌を巻いています。具体的には、次のようなくだりです。

“Everything about him was old except his eyes and they were the same color as the sea and were cheerful and undefeated.”
「この男に関するかぎり、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。」(『老人と海』福田恒存訳)

“The brick walls are there for a reason. They’re not there to keep us out. The brick walls are there to give us a chance to show how badly we want something.”
「レンガの壁がそこあるのには理由がある。僕たちの行く手を阻むためにあるのではない。その壁の向こうにある「何か」を自分がどれほど真剣に望んでいるか、証明するチャンスを与えているのだ。」(『最後の授業』矢羽野薫訳)

『老人と海』の福田訳に注目しましょう。原文の ”except his eyes” という説明句を、「ただ眼だけがちがう」と、独立した1文にしています。これはすごいと思います。もしここを、われわれが学校で教わったとおり「眼をのぞいて…」とやったのでは、福田訳のような強烈なアピールは望めなかったのではないでしょうか。
『最後の授業』の矢羽野訳でも、原文の ” something” に言葉を補足して、“その壁の向こうにある「何か」”としています。さらに、”a chance to show” を「見せるチャンス」という平板な表現にせず、「証明するチャンス」としています。2つの工夫で、原文の真意が見事に浮き彫りにされています。
私事であすが、英語から訳された本を読む際、重要なところには傍線や下線を引いたり、マーカーでハイライトしたりします。が、それとは別に、気になった訳語に波線を付し、欄外に「Eng」とか「レ」など書きつけます。機会があれば原書の英文をチェックしてみたいという印です。翻訳者の努力の跡を偲んでみようという意図もあります。
翻訳の世界では、「10人の翻訳者がいれば、10種類の訳文がある」といいます。(経済学の世界では、「10人の経済学者がいれば、経済政策は11ある」というそうです。)そこで、ある著名な日本人翻訳者がエッセーで説いていることを思い出しました。「翻訳本の日本語にいぶかしく思うところがあっても、原書の原文にあたってみようなどという『不心得な了見』は起こさないように」
しかし今やアマゾンなら、原著を2-3日で入手できるようになりました。そして、波線を付した日本語訳の該当部分を原著で探し当て、翻訳者の苦労を追体験するのは、思いがけず、楽しい作業であることに気づきました。かくして、この「不心得な了見」は、今後も私の読書のある位置を占め続けるでしょう。
教訓:「不心得な了見」は楽しいです。