2016年10月、上野の東京国立博物館で特別展「禅―心をかたちに-臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念」が開催されていました。友人と連れだって週末に立ち寄ったところ、なかなかの盛況ぶりでした。
禅は仏教の宗派の一つで、仏教の教えの中心である「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」のうち、特に「定」(=心を鎮める、収める)を重視しています。ヨガに起源をもつ坐禅は、「定」を得るための方法論と言えます。昨今人気の「マインドフルネス」も、ストレスを軽減し集中力を高める効果があるとして、米国のIT企業が社員教育に採用するなどしたことから日本でも注目されているようです。アップル創業者スティーブ・ジョブズがかつてカリフォルニアで曹洞宗(日本の二大禅宗の一つで、中国に留学して禅を学んだ日本人僧侶・道元を開祖とする宗派)の僧侶、乙川弘文老師の教えを受けていたというのも、マインドフルネスの人気に影響したことでしょう。
原始仏教の姿をより濃く残し、中国・老荘思想の影響を受けたとされる禅は、宗教というより哲学に近いとも言われます。じっさい、禅宗では「あの世」や「幽霊」、「地獄」というものを信じませんし、特定の「神」や開祖に依存することもありません。あるのは「己事究明」=自らを知る、のみです。
禅宗を含む日本仏教が誤解されがちな点に仏教=葬式用、という認識があります。たとえば戒名についても、お坊さんが儲けるための方便、との疑いを持ってしまいがちです。しかしそもそも戒名をつけるというのは仏道の修行者になるということで、本来ならば生存中になっておくべきところ、それが叶わなかったので、死出に赴くにあたり最期に仏道修行者となり戒名をもらう、という意味があります。ここで、「あの世」「地獄」を信じないなら亡くなった後のことを心配するのはおかしい、ということになります。それでもそうしたことをするのは、葬儀自体、故人のためだけのものではなく遺族をはじめ故人を見送る者たちのためのものでもあるからです。戒名をつける、あの世で困らないようにと棺にお金を入れる、あるいはいつまでも一緒にとの願いから生前の家族写真を入れる、というのも、それによって遺族自身が慰められる行為と考えます。じっさい、日ごろ迷信めいたことは一切信じていなくても、親しい人や可愛がっていたペットを亡くした時など、「あちらにいる」と思うことでなんとなく気持ちが安らぐ経験をしたことがあるのは私だけではないと思います。同じように、「幽霊」を信じないからと言って、それを見た、と言っている人を頭ごなしに否定するようなこともしません。その人が見たと認識するなら、その人にとっては見えたのでしょう。「幽霊」なんて迷信だ、などと自分の考えにこだわるような事はしないのです。禅では執着すること、とらわれることをもっとも嫌うからです。さらに言えば執着しないことにも執着しません。ここまで来ると禅問答の世界に感じられてきますが、言わんとするところはわからなくもないように思います。親しい人を亡くして悲しんでいる人を慰めることが善行であるならば、「地獄」「幽霊」の有無など二の次です。なすべきことをなすために自由自在、なのです。
時間についても同様です。坐禅中は過去にも未来にもとらわれず、「即今只今(そっこんただいま)」といって、その瞬間瞬間に意識を集中させることを良しとします。このことは「捨てる」とも表現されます。すべてのとらわれを捨てて坐禅する、日常生活であれば目の前の仕事に集中するということでしょう(これはラーキンが提唱するインスタントタスクにもつながるかもしれません)。
そして、この「捨てる」作業がストレス軽減と集中力増進につながるようです。仏教的には、こうして得られる心の落ち着きが他人への思いやりや勇気となり、その結果、より良い生き方ができるとします。そして日本仏教を含む大乗仏教ではさらに、自分だけでなく周りの人もそうした生き方ができるよう助けることで国の平安が得られる、とします。
そのような大乗仏教的な考え方は大げさとしても、自分を知り、自分を信じ、さらに自分の心が何かにとらわれることを戒める、というのは、パーソナルPMの実践においても役に立つと思っています。
※ここで述べた「禅」に関する考え方はあくまで私個人の理解によるものです。より正しい理解と実践を求める方は、各種ある禅の入門書を読むか、坐禅会を開催しているお近くの禅寺に足を運ばれることをお勧め致します。