共有の喜びこそが目的のプロジェクトもある

地元の幼稚園の校舎と園庭をお借りして、ボーイスカウト、ガールスカウト、大学のサークルといった団体が参画するお祭りの実行委員長を、この十年以上、やってきました。20軒近い出店が並び300~400人を動員するくらいの比較的小規模なイベントですが、40年以上の歴史があり、小中学生の時は私自身、ボーイスカウトとして参加していました。

大人になり、実行委員長としてこのお祭りの準備に関わり始めた時、ガントチャートもなく、網羅的なTo Doリストもなく、そして当日の段取り表も貧弱で、ノウハウを継承しずらい、カオスな状態に思えました。そこで以降、スケジュール表を精緻化し、To Doリストの網羅性を高め、当日の段取り表を充実させるべく、数年がかりで資料のブラッシュアップを進めていきました。特にTo Doリストについては、「これらの項目を一つずつこなしていけば自動的にお祭りが開催できる」レベルのマニュアルに仕上げました。

結果として、お祭りは機械的に準備できるようになり、ワークロードは下がり、実行委員会も少人数で回せるようになりました。ただ、こういった形でお祭りを続けていく中で、「このやり方は、果たしてお祭りの目的を満たすことに寄与しているのだろうか」という疑問が大きくなっていきました。お祭り自体はスムーズにつつがなく開催できるようになり、実行委員会としては成功と言っていい状況ではあったのですが、私も周囲の人たちも、以前よりお祭りを楽しめなくなっていたのです。

「最小の労力で効率よくお祭りを開催する」ことが目的であるならば、私のやり方はきっとその成功に寄与していたのでしょう。しかし、お祭りはそういった経済原則に従うわけではなく、たとえ非効率であったとしても、多くの人たちがその実現に関わり、「ああでもない、こうでもない」と作り上げていくプロセスをともに歩み、そして「うまくいってよかった」と喜びを分かち合うこと、すなわち“共有すること”自体が目的であることに遅まきながら気付いたのです。ノウハウが共有しずらいこと自体が話し合いの必要性を高め、カオスなことがある意味、成功体験共有の幸福感を増幅することに気付きました。それ以来、「事故や怪我がないこと」「開催自体が危ぶまれるような失敗をしないこと」を最低限、満足できるよう、あえて資料の詳細度を下げていきました。そうすることで、ちょっとした失敗すら楽しめる、そういった失敗が翌年の新しい試みにつながるような形を目指すことにしました。

この個人プロジェクトを通じて、「最小限の工数で期日通りに高品質で完了させる」という考え方が、全てのプロジェクトに通用するわけではないことを知りました。他方、仕事としてのプロジェクトでは、QCD(Quality, Cost, Delivery)の最適化は最重要として避けられないものと思います。その制約の中にあったとしても、プロジェクトメンバーやステークホルダーとの共有の喜びを失ってはいけないと、この経験は私に教えてくれました。

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