作成者別アーカイブ: 川崎将男

「淡々と」 言われ続けて 今わかる

数十年前、新卒で某大手コンピュータメーカーに入社した僕は、研修後、お客様担当のSEとして社会人生活を始めた。当時、指導を受けていた直属の先輩SEは優秀、かつ仕事に妥協を許さないタイプで、本当に厳しく、何度も叱られ、スパルタ教育を受けた。研修での成績が良かったので、期待もしていたのだと思う。ただ、僕は、学生から社会人へとマインドセットを変えることがなかなかできず、何年もの間、満足できる業務上の成果を上げることができないでいた。それでも、次から次へとやるべきことは降ってくる。To Doの山に埋もれながら、その先輩SEと自分を比べて、「自分は本当はできない人間なんじゃないか」という懐疑心にさいなまれ、不安と苛立ちの中、日々の仕事を何とかこなしていた。

深夜まで仕事をすることも多かったが、そういった時、隣の先輩SEがよく、「川﨑、淡々とやるんだ。泣こうが、わめこうが、やることは変わらないだろ。だから、感情を動かさないで淡々とやるんだ」と話しかけてきた。しかし、当時の僕はその言葉を聞いて、「淡々と仕事できないのは、あなたのせいでもあるだろ」くらいの気持ちしか湧いてはこなかった。

そうこうしている内にやっと仕事にも慣れ、自分なりの成果の上げ方も分かってきたが、留学を契機に会社を辞めた僕は今、中小企業の経営者として働いている。その中で、デスマーチプロジェクトで苦しんだ時、資金繰りに窮して天を仰いだ時、大事な打合せを前にした時、「淡々とやるんだ」という先輩SEの言葉をふと思い出していた。言われたその時は分からないけれども、後になって思い出し、自分を支える言葉があることを知った。感情を乱してもやるべきことは変わらない。だとしたら今できることに集中する。そして自分ではコントロールできないことは天にゆだねる。そういった思いを胸に、仕事も私事も当たっていこう。そう決意する礎になった大切な言葉となった。

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共有の喜びこそが目的のプロジェクトもある

地元の幼稚園の校舎と園庭をお借りして、ボーイスカウト、ガールスカウト、大学のサークルといった団体が参画するお祭りの実行委員長を、この十年以上、やってきました。20軒近い出店が並び300~400人を動員するくらいの比較的小規模なイベントですが、40年以上の歴史があり、小中学生の時は私自身、ボーイスカウトとして参加していました。

大人になり、実行委員長としてこのお祭りの準備に関わり始めた時、ガントチャートもなく、網羅的なTo Doリストもなく、そして当日の段取り表も貧弱で、ノウハウを継承しずらい、カオスな状態に思えました。そこで以降、スケジュール表を精緻化し、To Doリストの網羅性を高め、当日の段取り表を充実させるべく、数年がかりで資料のブラッシュアップを進めていきました。特にTo Doリストについては、「これらの項目を一つずつこなしていけば自動的にお祭りが開催できる」レベルのマニュアルに仕上げました。

結果として、お祭りは機械的に準備できるようになり、ワークロードは下がり、実行委員会も少人数で回せるようになりました。ただ、こういった形でお祭りを続けていく中で、「このやり方は、果たしてお祭りの目的を満たすことに寄与しているのだろうか」という疑問が大きくなっていきました。お祭り自体はスムーズにつつがなく開催できるようになり、実行委員会としては成功と言っていい状況ではあったのですが、私も周囲の人たちも、以前よりお祭りを楽しめなくなっていたのです。

「最小の労力で効率よくお祭りを開催する」ことが目的であるならば、私のやり方はきっとその成功に寄与していたのでしょう。しかし、お祭りはそういった経済原則に従うわけではなく、たとえ非効率であったとしても、多くの人たちがその実現に関わり、「ああでもない、こうでもない」と作り上げていくプロセスをともに歩み、そして「うまくいってよかった」と喜びを分かち合うこと、すなわち“共有すること”自体が目的であることに遅まきながら気付いたのです。ノウハウが共有しずらいこと自体が話し合いの必要性を高め、カオスなことがある意味、成功体験共有の幸福感を増幅することに気付きました。それ以来、「事故や怪我がないこと」「開催自体が危ぶまれるような失敗をしないこと」を最低限、満足できるよう、あえて資料の詳細度を下げていきました。そうすることで、ちょっとした失敗すら楽しめる、そういった失敗が翌年の新しい試みにつながるような形を目指すことにしました。

この個人プロジェクトを通じて、「最小限の工数で期日通りに高品質で完了させる」という考え方が、全てのプロジェクトに通用するわけではないことを知りました。他方、仕事としてのプロジェクトでは、QCD(Quality, Cost, Delivery)の最適化は最重要として避けられないものと思います。その制約の中にあったとしても、プロジェクトメンバーやステークホルダーとの共有の喜びを失ってはいけないと、この経験は私に教えてくれました。

雑魚キャラのように闘う

30年ぶりに再開した柔道を、今も細々と続けている。道場以外にも、筋トレに通い、毎日、最寄りより遠い駅に自転車で通勤し、少しでも進歩しようと試みてはいるが、50歳のおじさんが急に強くなるわけもなく、大人の中で僕が一番弱いのは変わらない。

道場に最近、中学生が入門してきた。休まず、一所懸命に練習しているが、大人たちにはなかなか歯が立たない。ある日、道場の先生が僕を指して彼に「まずはこのおじさんを倒すのを目標にしなさい」と話していた。越えられるかもしれない目標を提示して、やる気を失わないように、という配慮であろう。それは分かる。

ただ、その時、僕の脳裏によぎったのは、「俺は雑魚キャラか…?」ということだった。「俺様を倒さなければ、あの方に相見えることはできん!」と大見得を切るものの、案の定、主人公にあっさりとやられてしまう、昔の漫画によく出てきた“最初の関門”的キャラである。知っている人しか知らないと思うが、「北斗の拳」のジャギや、「魁!男塾」の男爵ディーノとかが代表格であろう。当然、当時20代だった僕はそんな雑魚キャラに特別な注意を払うこともなく、あるいは嘲笑、冷笑し、ケンシロウや剣桃太郎といった主人公キャラに自分を重ねていたのであった。

話は変わるが、この歳になって柔道を再開し、気付いたのは「自分がいかに負けること、恥をかくことを恐れているか」ということだった。とにかく、投げられるのが怖くて嫌でたまらない。手加減されるのも許せない。結果、やられまいとして身体はガチガチになり、やられる回数は減るものの、そんなに固くなっていては満足に技もかけられない。

反面、新しく入ってきた中学生も、たくさんいる小学生たちも、嬉々として、自分よりはるかに強い大人たちに稽古をつけてもらっている。何回投げられようが、お構いなしに飛びかかり、技をかけ続けている。

その姿を見て、自分が柔道を始めた高校生の時を思った。自分も彼らと確かに同じで、やられてもやられても、自分より明らかに強い相手に立ち向かっていた。

社会人としての自分はどうだろうか?新人の時はどんな仕事でも、たとえ失敗する可能性が高い提案やプロジェクトであっても、必死になって取り組んだ。それが年月がたち、上司という立場になり、責任を負い、適当に世間ずれし、仕事も少しはできるようになって、失敗できなくなり、そして失敗する回数も減っていった。否、失敗する可能性があることに挑戦しなくなっただけなのかもしれない。

そう考えると、今まで歯牙にもかけなかった雑魚キャラのすごさが身に染みてきた。確実に勝てない相手に対して不敵なセリフをはき、立ち向かい、そしてやられる。可能性としては二つしかない。被我の実力差が分からないほど頭が悪いか、負ける可能性が高いことを知っても立ち向かう勇気があるかだ。漫画での描かれ方からは、前者の可能性が高いことが強く示唆されてはいるが、雑魚キャラとて闘う者のはしくれ、僕でさえ見た瞬間、組んだ瞬間に感じられる実力差が分からないはずはない。勝てると思って、勝つことを信じて闘う主人公より、負けると知ってなお闘う雑魚キャラの方が、本当は勇気があるのではないか。

柔道でも仕事でも、いい雑魚キャラになりたい。一回もやられたくないとガチガチに守るより、十回投げられてもいいが一回でも倒すという闘いをしたい。それができて初めて、「負けない代わりに勝ちもしない」毎日を乗り越えることができるのだろう。

けれども、たとえそうしたとしても、僕は2~3年後に高校生になった彼に投げられるだろうし、十回やられるだけで一回もやれないかもしれないし、それはもしかしたら柔道だけではなくて、仕事も人生もそうかもしれない。それでも雑魚キャラらしく、最後まで不敵なセリフをはき続けていたいと思った。

 

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自分以外の誰か、何かに没頭してこそ

「禁煙を成功させるには運動が一番だ!」と、ランニング、筋トレ、そして自転車通勤を始めたのですが、そうこうしている内に、「せっかく鍛えているのだから何か目的を持ちたい」という気持ちが昂じ、高校時代にかじった柔道を30年ぶりに再開することにしました。柔道の試合での勝利は、他のスポーツでの勝利以上に、自分に特別な高揚感を与えてくれると感じていました。「男性にとって“強い”ということは、無意識の奥底、本能に近いからこその高揚感なのだろう」「武道、格闘技を通じて自信を得ることは、今の仕事の役にも立つのではないだろうか」と思ったのです。

しかし、実際に道場に通い始めて分かったのは、「社会人になっても柔道を続けているのは強い人達ばかり」ということでした。高校や大学で柔道部やラグビー部に所属し、二段以上が当たり前、ずっと練習を積んできた20代や30代と戦って、30年のブランクがある50歳目前のおじさんが勝てるわけがなく、乱取りで投げられ、もしくは手加減され、自信を得るどころか粉々に砕かれてしまいました。道場の雰囲気はとても良く、そういう意味では楽しいのですが、“土佐犬の群れに紛れ込んだスピッツ”のように、「稽古自体が恐怖」という感覚に陥ってしまいました。

高校生の時は、たとえ投げられようとも、自分より明らかに強い相手にひたむきに立ち向かっていたのに、今はそれができない・・・このことから、自分がいかに、負けること、失敗することを恐れているのかを再認識しました。新入社員の時も、たとえ失敗しようともひたむきに取り組んでいたはずなのに、数十年が経ち、仕事に慣れ、上司という立場にもなり、失敗しない、失敗できないということに慣れるあまり、逆に「失敗を怖れて、失敗しそうなことには取り組まない」という姿勢が、知らず知らずの内に身に付いてしまったのかもしれない、と感じました。

ある日、打ち込みが終わって子ども達の乱取りの時間になり、疲れて道場の脇にへたり込んでいた時、怪我をさせないよう、また指導のため、多くの大人達が子どもの練習に付き添っていることに気付きました。それを見て、はたと「自分が強いとか、弱いとかではなく、目の前で練習している子ども達の役には立てるのではないか、いや、役に立ちたい」という思いが沸き起こってきました。それ以降、自分の打ち込みや乱取りが終わった後に休むのではなく、必ず子ども達に付き添い、見守り、応援するようにしました。しばらくして、子ども達の顔と名前が一致し始め、彼らの成長を心から喜べるようになった時、自分自身の稽古への恐怖心は消えていました。

パーソナルPMにおいて、やる気喪失への予防として「他人のためにやる」ことが挙げられています。また、心理学者のフランクルも“自己超越”という言葉を用いて、「人間は自分を忘れて対象に没頭した時のみ自己実現できる」という言葉を残しています。

柔道でも、仕事でも、「心のフォーカスが自分に向いている内は絶対に解決しない」ことを、「自分の勝ち負けや成功・失敗という次元で物事を捉えるのではなく、自分以外の誰か、何かに没頭することこそが大切である」ことを、この経験は期せずして教えてくれました。

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放置した 小さいリスク 喉の骨

今年の夏、娘と甥を連れて、米国の友人宅にホームステイさせてもらうことになり、まずはアクションアイテムを洗い出すことにしました。

・航空券の予約

・航空券代金の調達と支払

・パスポート取得

・ESTA申請

・海外旅行傷害保険加入

・・・

まずは何をさておき「航空券の予約」です。これだけは出発の約3ヶ月前から動き始め、望んでいた日取りのフライトをそれなりの価格で押さえることができました。

その時に追加したアクションアイテムの一つに、「国際線での座席確認」がありました。提携便としての予約、かつ航空会社の業務時間外だったことから、その場で座席を確認できなかったのです。子どもたちにとっては物心ついてから初めての海外でもあり、「できれば窓側3席並び」「もしダメなら真中で良いので通路に面した3席並び」という希望を旅行代理店の担当者に伝えました。先方からは「平日昼間に座席確認して、また連絡します」という話でした。

それから私は、航空券代金を支払うための資金調達や、パスポート取得のための手続きに入っていきました。「これを外すと行けなくなってしまう」リスクへの対処を優先すべきだと考えたからです。

それらの目途がついてからしばらくして、はたと「そういえば、国際線の座席について、全然、連絡が来ないなぁ」と気付きました。代理店に連絡すると「確認するのでお待ち下さい」とのこと、その後の電話で「行きは、”xxF”が1席と”yyE”、”yyF”の2席になります」と言われました。

「3席並びにできなかったんですね」ということでその場は一旦、電話を切りましたが、“E”とか”F”とかいう番号に不安を感じ、座席表を調べてみると、真中エリアの更に真中という「外の景色も見られず、トイレに行く時は必ず通路側の乗客に『すみません』と声をかけなくてはならない、最悪の中でも最悪」の席であることが分かりました。その後、代理店にクレームの電話を入れると、先方も手配漏れであったことを認め、平謝り、かつ「キャンセルが出て座席を変更できないか、定期的にチェックして報告します」との約束となりました・・・

いくら謝られても、キャンセルが出なければ、他の乗客をどかすわけにはいかないですから、この席のまま、10時間以上ものフライトに耐えなくてはいけません。そのことを考えると、楽しいはずの旅行なのに、喉に一本、魚の骨がささったような気分になりました。「せめて一本、電話を入れて、座席を確認しておけば良かった」と思いましたが、こうなったら後の祭りです・・・

このことで唯一、良かったことは、“私の油断への戒め”ではなかったかと思っています。リスクの軽重はTo Doの優先度付けに影響する最大の要因と思いますが、大きいリスクだけを考えて物事をシリアルに処理してはいけない、たとえリスクは小さくても最低限必要なことは併行して処理すべきだと、心底、感じました。「行けない」リスクに対処した後、少し安心して滞ってしまっていた準備作業に、これから精力的に取り組もうと思える契機になりました。

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「To doは目的に準じる」という当たり前だけど難しいこと・・・

「やることが多すぎるんだよなぁ・・・」

といつもは不満たらたらなのに、「この数日中にやらなくてはならないTo do全て消化し切ってしまう」ようなことがたまに発生すると、何だかとても不安になり、うろたえることがあります。

こんな気持ちになる度に、「もしかしたら自分は、やることが目の前に山と積まれている状況がしんどいのではなく、逆にそれを望んでさえいるのではないだろうか」と感じます。ベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み立てるロボットは、何のためにその部品を組み立てているのか知りません。同じように私も、目の前に積まれていくTo doにトリガーをかけられ、イベントドリブンで処理する作業に埋没することで、「果たして何のためにこのTo doをやっているのか」「自分が今やるべきことは本当にこれなのか」といった命題を忘れてしまっているのです。いや、それ以上に、忘れている状態がある意味、心地いいからこそ、目の前のTo doが無くなった状況に対して怖れを感じるのではないか、と思うのです。

ドラッカー教授は、「To doの緊急度と重要度とを明確に区別し、自らの時間を意識的に管理しようとしなければ、“緊急ではあるが重要でないこと”に時間のほとんどが費やされてしまい、“緊急ではないが重要なこと”にかける時間がなくなってしまう」と喝破されました。思うに、“緊急なこと”は誰でもすぐに分かるのですが、“重要なこと”を識別するのはとても難しいのです・・・なぜなら、「その“重要なこと”が重要である根拠」は、ゴールや目的の視点からのみ正当化され、説明可能なのであり、そしてそのゴールや目的は、自分自身の価値観から見出されるものだからです。「“重要なこと”は何か」に思いを馳せることは、少なくとも中長期に渡る目的を問うことであり、ひいては自らの価値観を見つめ直すことでもあります。重要度を考えずに目先のTo doに埋没する、すなわち“緊急である”という理由だけで高い優先順位を与えて行動することは、「一仕事した」というある種の充実感を伴う分だけなおさら、「本質的ではあるが突き詰めるのは苦しい人生の問いから目を逸らさせる」危険な誘惑なのかもしれません。

「この日にやらないといけないから」といったルーチンワークとしてのTo doではなく、「やると約束したから」という義務としてのTo doでもない、「ミッション→ビジョン→目的→目標→活動」という本来あるべき筋道を辿ったTo doに、今更ながら、しかし今こそ、取り組んでいきたいと考えています。To doの消化が怖れではなく、目的の達成に近づいていく喜びだと感じられた時こそ、自分が自分のミッションを正しく生きることができている証のような気がしています。

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禁煙プロジェクト -気持ちいいから続けられる-

タバコを吸わない方にはなかなかお分かりにならないと思いますが、多くの喫煙者は今、以下のような葛藤の中で暮らしていると思います(私もそうでした)。

(喫煙しながら)「値上がりしたし、今後も値段は上がる一方だし、小遣いきついなぁ・・・」

「最近は吸わない人の方が多いから、外で吸える場所を探すのも大変だし、飲みに行っても肩身が狭いんだよなぁ・・・」

「健康にも悪いと言われてるし、ベランダで吸ってても妻や子どもから『ベランダがタバコ臭い』と怒られるし、いっそ禁煙しようかなぁ・・・」

「いや・・・待てよ・・・タバコなくして、俺は毎日のストレス、あんなことやこんなことに果たして耐えられるのか?」

「まぁ、タバコは、一人でいたくなった時に『一本吸ってくる』と言うための小道具でもあるし、喫煙所でのコミュニケーションも意味あるし、悪いことばかりじゃないよな・・・」

「喫煙して病気になるかどうかは時の運だしな。俺は病気にならないかもしれないし・・・そうだ!だいたい、妻も子どもも“臭い”とかじゃなくて、俺の健康を心配すべきなんだ!」

「色々と考えてたら疲れたわ・・・もう一本吸おう」(→最初に戻る)

そして、この葛藤で“禁煙しよう”という気持ちが勝利することが稀にあり、その時、人は禁煙に挑戦するのでしょう。自分も例外ではないのですが、私の場合、その挑戦にことごとく失敗してきました。

1.最初の失敗:ニコチンガムとニコチンパッチ(だけ)

俗に言う“ニコチン置換療法”です。何もないよりましなのですが、どうしても喫煙と同じレベルでの満足感が味わえない・・・調べてみると「喫煙は静脈注射並みのスピード、約7秒でニコチンを脳に届ける」とのこと。消化器経由や皮膚経由では効きが遅すぎ、かつピーク値も低いからであろうと納得するも、後はひたすら我慢の日々。その内、仕事の能率にも支障が出始め、“禁煙うつ”的な状態に陥り、「一本だけなら・・・」とタバコを手に取ったら、あっという間に元通りの喫煙者になりました・・・

2.二回目の失敗:禁煙補助薬(だけ)

禁煙補助薬としてチャンピックスが保険適用になったと聞いて、「これで私もタバコを止めれるかも」と“お医者さんと禁煙”し始めました。確かにこの薬はすごいのです・・・薬さえ飲んでいたら、タバコを吸わなくても、ほとんどニコチンへの渇望を感じません。

無事に3ヶ月間の服用期間を終え、お医者さんから「禁煙成功しましたね!」と言われてからが本当のヤマでした・・・タバコを吸う代わりに間食してしまうのです。体重は見る見る内に増えて肥満になり、健康診断の数値も禁煙前より悪化し、タバコの代わりにお菓子を買ってしまうので小遣いにも余裕ができず、「何のために禁煙したんだろ、俺・・・」という気持ちが強くなっていきました。そして非常にストレスフルな出来事があったある日、「一本だけなら・・・」とタバコを手に取ると、再度、喫煙者に逆戻りでした・・・

3.三度目の正直:禁煙補助薬+習慣の入れ替え

「禁煙成功したのね!」と喜んでいた妻や子どもから“意志が弱い人”という冷たい視線を浴び、「また失敗したら恥ずかしすぎる」と、三度目の挑戦に対してはかなりの及び腰でした。二度目の失敗から3年間に渡って吸い続けた後、葛藤の中で再度“禁煙”が勝利することがあり、三度目の挑戦をすることにしました。但し今回は、ニコチンガムやニコチンパッチ、禁煙補助薬に頼り切るようなことはせず、“タバコがなぜ止めにくいのか”敵のことを研究した上で、パーソナルプロジェクトらしく実践することにしました。

調べてみると喫煙習慣は、βエンドルフィンやドーパミン、セロトニンといった、多幸感や達成感、安心感を司る脳内ホルモンが“ニコチンによって過剰に分泌される”中毒症状であることが分かりました。そして、そういった脳内ホルモンは禁煙補助薬でも食事でも分泌されるので、二回目の失敗において、私自身は意識できていませんでしたが、

「イライラする→タバコを吸う→脳内ホルモンが分泌される→スッキリする」

→「禁煙補助薬を飲む→脳内ホルモンが分泌される→そもそもイライラしない」

→「イライラする→間食する→脳内ホルモンが分泌される→スッキリする」

という当然の経過を辿っていたことに気付きました。

他方、一回目の失敗では、ニコチンガムやニコチンパッチで緩和されてはいたものの、

「イライラする→タバコを吸う→脳内ホルモンが分泌される→スッキリする」

→「イライラする→タバコを吸えない→脳内ホルモンが分泌されない→スッキリしない」

という、これまた当然の我慢をしていたのです。

この解決策として、友人が紹介してくれた「習慣の力」という本がとても役に立ちました。この本には、「無意識下で回っている『きっかけ→習慣→報酬』のサイクルにおいて、あるきっかけをトリガーに報酬を求めること自体は変えられないが、習慣だけを入れ替えることによって、このサイクルが人生にもたらす影響を変えることができる」といった主旨のことが書かれていました。また、別の文献を調べると、運動することによっても同種の脳内ホルモンが分泌されることが分かりました。

そこで今回は、フェーズ1として、禁煙補助薬を服用してまずは喫煙習慣だけ止めた後、

「イライラする→間食する→脳内ホルモンが分泌される→スッキリする」

⇒肥満&不健康&浪費

ではなく、フェーズ2として、

「運動する→脳内ホルモンが分泌される→そもそもイライラしない」

⇒筋肉質&健康&貯金

を目指して、ランニングと筋トレの日課を設定、その実績をモニタリングすることにしました。

4.気持ちいいから続けられる

開始から一年近くが経ちましたが、今も全くストレスなく禁煙を続けることができています。それだけではなく、喫煙者であった時にタバコを渇望していたように、今では運動を渇望するようになりました。最近は、ランニングと筋トレだけでは飽き足らず、自転車通勤も始めています。タバコを止めたいから、健康にいいから、無理に自分を鼓舞して運動しているわけでも何でもなく、ただ気持ちいいから運動して、結果、タバコを吸いたいという気にさえならない、という変化が起きています。“脳内ホルモン分泌による快感への欲求”を充足させるための手段の違いだけであるにも関わらず、その手段の違いが自分の生活に与える影響の違いには非常に大きいものがあります。

この経験を通じて、「物事を成し遂げるために、我慢して、自分を律して、何かをする」ことよりも、「意図して自分の習慣をデザインし、プロセス自体気持ちいいから継続できて、結果として物事が達成される」ことの方が、成功する確率が高いのではないかと考えるようになりました。

たまたま禁煙をテーマに書いてきましたが、「プロセス自体を楽しめるかが重要」という点では、他の私事であっても、そして仕事であっても、変わりはないようにも思えます。喫煙者で「禁煙したい」と思っている方だけではなく、非喫煙者の方にも役立てていただけるとしたら、この拙文を書いた者として幸せに思います。

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“許さなくても赦す”努力を続けたい

結婚され、ご家庭をお持ちの多くの方が体験されていることではないかと思いますが、「性格も育った環境も違う二人が一緒に暮らす」行為には、大きな困難が伴うと思います。結婚前、お付き合いしている間は適度な間合いが保たれていたため、お互いの違いはある種の刺激として、良いものにさえ感じられていたのですが、いざ一緒に住んでみると、それは我慢のならない違和感へと容易に変わり得るのではないかと感じます。そして、その違和感を克服し、相手の考えや立場を理解することは、間合いが近く、利害をシェアしていればしているほど難しいのではないでしょうか。

私もその例外ではありませんでした・・・

結婚してしばらくして、妻に対して何か不満に思うことが起きる度に、それはどういう事象であったのか、メモを取るようになっていたのです。「一つの大きい出来事に対してどのようなスタンスを取るか」ということ以上に、小さな違和感が日々、幾千、幾万と堆積していくことに恐怖を感じました。積み上がった違和感によって、「一つひとつの理由は思い出せないのだけれど、何だか知らないが我慢できない」という精神状態にもし陥ってしまったら、その感情が生じた理由さえ覚えていないわけですから、「理由となっている事象を解決することで、それに伴う感情をも消失させる」という手立てすら取れなくなるからです。メモを取り、何があったのかをいつでも確認できるようにすることで、そういった手立てを取れるようになるのではないか、と想像していました。

しかし、そのメモはあっという間に数十ページにもなっていきました・・・

「違和感の理由となっている事象の全てを解決することなどできるわけがない」ことに、私は気付いていませんでした。

そんな中、ある人が私に、「何回、赦しているか勘定している間は、あなたは決してその人を赦してはいないのだ」という言葉を教えてくれました。この言葉を聞いて、“許す”と“赦す”との違いを思いました。たとえ“許す(admit)”ことができなくても、“赦す(forgive)”ことはできるのではないか、と・・・そして、私が一所懸命に取っていたメモは、実は赦していない回数を勘定するためだけの代物ではないか、と・・・

そこからは一切メモを取ることを止め、何か違和感や不満を覚える都度、“許さなくても赦す”という決意を思い起こすことで、感情を消し去る努力を始めました。最初は感情が消えるまで数日かかることもありましたが、何度も訓練するにつれて、数時間、数分、場合によっては数秒と、感情が持続する時間は短くなっていきました。

またこの訓練は、「相手も私に対して、同じように違和感や不満を覚えていたのだ」という、ごく当たり前のことを気付く契機にもなりました。私がメモを取っていた数十ページの事象に対して、逆に妻は、「なぜこんなことでこの人は怒っているのだろう」という違和感を覚えていたに違いない、と・・・

家族は、一番間合いが近く、かつ利害を最も深くシェアしているステークホルダーではありますが、会社の上司や同僚、部下も、それに準じて強い関わりを持っている関係者と思います。家庭だけではなく、ビジネスの現場であっても、“許さなくても赦す”マインドセットを根本に持つことは、そしてそれが社風として文化として存在することは、より良いステークホルダー・マネジメントの前提条件なのかもしれない、と感じています。

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個人プロジェクトでの達成経験を積み重ねる

「今年の夏こそ、家族とともに米国の友人家族を訪ねて、子どもに海外体験をさせてあげたい」と、この十年、思ってきました。しかし、例年の如く、金銭、時間の都合によりそれを達成できなかった夏の終わりの日、以前から「無駄なお金と時間を使っているのではないか」と気になっていた、自身の喫煙習慣に思い至りました。そして、「いったい、私はタバコにいくら、そしてどれだけの時間を使っているのだろう」との考えから、年間の費用と時間を試算してみることにしました。

『410円×1.5箱/日×365日/年=224,475円/年』

『3分/本×30本/日×365日/年=32,850分/年=22.8日/年』

おそらくは無意識に目をそむけていたであろう、この簡単な計算結果を見て、私は衝撃を受けました。「喫煙の習慣さえ変えることができていたら、少なくとも2~3年に一回は家族で米国に行くことができた」ことに、そして「自ら決意して実行すれば達成できることすら、自分はしていなかった」ということに・・・

『心は行動となり、行動は習癖を生む。習癖は品性を作り、品性は運命を決する』という言葉があります。そのサイクルを変えるスタート地点は、もしかしたら“心”ではなく“習癖”なのかもしれません。そう考えると、「習癖を変えることで、行動を変え、心を変えることができるのではないか」、ひいては「その変わった心で毎日の仕事や生活に取り組むことで、運命を変えられるのではないか」という思いも昂じてきました。そこで、喫煙の習慣を早朝のランニングと筋トレの習慣に入れ替え、禁煙を達成する、個人プロジェクトを始めることにしました。目標は、来年の夏こそ家族で米国に行くことです。

それから2ヶ月、このプロジェクトには、目標の達成に近づくことに留まらず、達成に至る過程に多くの副産物があることに気づきました。家族と一緒に過ごせる時間が増えたことや、木々や鳥、青空に洗われた心で職場に向かえることはその一部です。加えて、「自分は自分自身をコントロールできる」「自分は諦めずに努力できる」という意識を、些細なことでも毎日やり遂げていく中で、少しずつ取り戻せるようになってきたことが最大の副産物ではないか、と感じています。

エジソンは『私達の最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ』という言葉を残しています。多くの先達が伝えるように「諦めない内は失敗ではない」のです。そして、続ける姿勢、それを支える自信を得るには、物事を達成した経験を積み重ねることが有効だと思います。

その反面、現代社会は、“諦める理由”がたくさんある、“達成感を感じづらい環境”になってしまっているように思います。居ながらにして膨大な情報を入手できるネットは、何もしない内から前途の難関や結果を否応無く思い起こさせます。職場では、“うまくいって当たり前”という状況の下、複数のプロジェクトに組み込まれ、達成した喜びを得る間もなく次のプロジェクトに忙殺されざるを得ない方も少なくないと思われます。もしその流れに身を委ねるだけになってしまったら、「結局、自分自身さえコントロールできない」という考えに陥ってしまうかもしれません。

その対処の一つとして、関心をお持ちの身近な分野について個人プロジェクトを始めてみたらいかがでしょうか?個人プロジェクトはステークホルダーが少なく、努力が成果に直結しやすいと言えます。自分で自分をコントロールしながら、諦めずに目標達成に向かっている感覚を得られます。たとえ小さくても、プロジェクトの過程と完遂を通じて得られた達成感、自信、やり続ける習慣は、自らの心を変え、ひいては運命を変えるきっかけになると思っています。

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