自分以外の誰か、何かに没頭してこそ

「禁煙を成功させるには運動が一番だ!」と、ランニング、筋トレ、そして自転車通勤を始めたのですが、そうこうしている内に、「せっかく鍛えているのだから何か目的を持ちたい」という気持ちが昂じ、高校時代にかじった柔道を30年ぶりに再開することにしました。柔道の試合での勝利は、他のスポーツでの勝利以上に、自分に特別な高揚感を与えてくれると感じていました。「男性にとって“強い”ということは、無意識の奥底、本能に近いからこその高揚感なのだろう」「武道、格闘技を通じて自信を得ることは、今の仕事の役にも立つのではないだろうか」と思ったのです。

しかし、実際に道場に通い始めて分かったのは、「社会人になっても柔道を続けているのは強い人達ばかり」ということでした。高校や大学で柔道部やラグビー部に所属し、二段以上が当たり前、ずっと練習を積んできた20代や30代と戦って、30年のブランクがある50歳目前のおじさんが勝てるわけがなく、乱取りで投げられ、もしくは手加減され、自信を得るどころか粉々に砕かれてしまいました。道場の雰囲気はとても良く、そういう意味では楽しいのですが、“土佐犬の群れに紛れ込んだスピッツ”のように、「稽古自体が恐怖」という感覚に陥ってしまいました。

高校生の時は、たとえ投げられようとも、自分より明らかに強い相手にひたむきに立ち向かっていたのに、今はそれができない・・・このことから、自分がいかに、負けること、失敗することを恐れているのかを再認識しました。新入社員の時も、たとえ失敗しようともひたむきに取り組んでいたはずなのに、数十年が経ち、仕事に慣れ、上司という立場にもなり、失敗しない、失敗できないということに慣れるあまり、逆に「失敗を怖れて、失敗しそうなことには取り組まない」という姿勢が、知らず知らずの内に身に付いてしまったのかもしれない、と感じました。

ある日、打ち込みが終わって子ども達の乱取りの時間になり、疲れて道場の脇にへたり込んでいた時、怪我をさせないよう、また指導のため、多くの大人達が子どもの練習に付き添っていることに気付きました。それを見て、はたと「自分が強いとか、弱いとかではなく、目の前で練習している子ども達の役には立てるのではないか、いや、役に立ちたい」という思いが沸き起こってきました。それ以降、自分の打ち込みや乱取りが終わった後に休むのではなく、必ず子ども達に付き添い、見守り、応援するようにしました。しばらくして、子ども達の顔と名前が一致し始め、彼らの成長を心から喜べるようになった時、自分自身の稽古への恐怖心は消えていました。

パーソナルPMにおいて、やる気喪失への予防として「他人のためにやる」ことが挙げられています。また、心理学者のフランクルも“自己超越”という言葉を用いて、「人間は自分を忘れて対象に没頭した時のみ自己実現できる」という言葉を残しています。

柔道でも、仕事でも、「心のフォーカスが自分に向いている内は絶対に解決しない」ことを、「自分の勝ち負けや成功・失敗という次元で物事を捉えるのではなく、自分以外の誰か、何かに没頭することこそが大切である」ことを、この経験は期せずして教えてくれました。

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