適度な図々しさ

九州出張を機に大分県中津を訪れました。プロジェクトマネジメントの関係者に中津出身の方が2人おられますが、同地には福沢諭吉の「独立自尊」という言葉を大書した碑が立っています。お2人とも幼少期に、毎日その碑を見て育ち、少なからぬ影響を受けている、と聞いていたからです。
JR中津駅に降り立つと、真正面に福沢の銅像が佇立しています。さっそく、福沢の旧居に行ってみました。旧居のすぐ脇に稲荷があります。少年の福沢が、いたずら心から、神体を開けて中の石を別の石ころと入れ替えておいたときのことです。初午なって、周りの人がのぼりを立て、太鼓をたたき、お神酒をあげて拝んでいます。それを見た福沢が「ばかめ」と1人嬉しがっていた、という場所です(『福翁自伝』)。
反対側に記念館が併設されていて、福沢ゆかりの展示物が多く見られます。その中の1つ「願書」に目を奪われました。当時、大坂の適塾に留学していた福沢は、チフスに罹って中津に一時帰郷しています。再度大坂に出かける際、中津藩庁に留学の願書を提出しました。その中で、目的を「砲術」の修行に出かけると書いています。適塾の緒方洪庵は医者であるにもかかわらず、です。展示の説明では、「蘭学」のための留学は当時の中津で前例がなく、認められなかったからだとのことです。ここで、もし福沢が「蘭学」の勉学のためと生真面目に書き、その結果、留学を拒否されていとしたら、『学問のすすめ』をはじめとする、福沢の啓蒙活動は、かくも広汎・多大な影響力を持ったなかったことでしょう。
積極性とは「適度な図々しさ」のことかもしれません。福沢が「砲術」の修行と申請したのも、福沢の「適度な図々しさ」の発露であったのではないでしょうか。
教訓:積極性とは「適度な図々しさ」のことかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)