落ち込んだ 自然に触れて 漲る気

休みなく仕事をやってもやっても、どうしようもなく、どうすればいいか悩んでしまうときがある。そういった時に森の中に入ってじっとその中で自然を感じたり、日本海をじっとながめて(いずれも何も考えず)一日いると不思議と気力が回復してくる といったお話し(わたしだけかも)

この事態 我に与えた 試練かな

綺麗な仕事を担当させてもらうことは少なく、いつも酷いものばかり。でも、考えようによっては天が与えた試練なのかもね、何か学ぶことがあるかもと、開きなおることも大事 というお話し

これ以上 悪くはならぬ 覚悟決め

最悪のプロジェクト、部門の立て直しを何度か担当したが、考えてみれば何をしてもこれ以上悪くはならないと思えば、気が楽になり思い切って動いた というお話

誠実さ 四面楚歌から 救いの手

日々の仕事に誠実に取り組んでいれば、困ったときにはなぜか救いの手を差しのべてくれる人があらわれる体験のお話し

「淡々と」 言われ続けて 今わかる

数十年前、新卒で某大手コンピュータメーカーに入社した僕は、研修後、お客様担当のSEとして社会人生活を始めた。当時、指導を受けていた直属の先輩SEは優秀、かつ仕事に妥協を許さないタイプで、本当に厳しく、何度も叱られ、スパルタ教育を受けた。研修での成績が良かったので、期待もしていたのだと思う。ただ、僕は、学生から社会人へとマインドセットを変えることがなかなかできず、何年もの間、満足できる業務上の成果を上げることができないでいた。それでも、次から次へとやるべきことは降ってくる。To Doの山に埋もれながら、その先輩SEと自分を比べて、「自分は本当はできない人間なんじゃないか」という懐疑心にさいなまれ、不安と苛立ちの中、日々の仕事を何とかこなしていた。

深夜まで仕事をすることも多かったが、そういった時、隣の先輩SEがよく、「川﨑、淡々とやるんだ。泣こうが、わめこうが、やることは変わらないだろ。だから、感情を動かさないで淡々とやるんだ」と話しかけてきた。しかし、当時の僕はその言葉を聞いて、「淡々と仕事できないのは、あなたのせいでもあるだろ」くらいの気持ちしか湧いてはこなかった。

そうこうしている内にやっと仕事にも慣れ、自分なりの成果の上げ方も分かってきたが、留学を契機に会社を辞めた僕は今、中小企業の経営者として働いている。その中で、デスマーチプロジェクトで苦しんだ時、資金繰りに窮して天を仰いだ時、大事な打合せを前にした時、「淡々とやるんだ」という先輩SEの言葉をふと思い出していた。言われたその時は分からないけれども、後になって思い出し、自分を支える言葉があることを知った。感情を乱してもやるべきことは変わらない。だとしたら今できることに集中する。そして自分ではコントロールできないことは天にゆだねる。そういった思いを胸に、仕事も私事も当たっていこう。そう決意する礎になった大切な言葉となった。

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寝る前の 英語のテープ 子守歌

高校時代に、何がきっかけか忘れましたが英語のヒアリングを無性に勉強したくなりました。当時の教材は主に高価なレコード(!)で、貧乏学生にはネイティブ英語を聞く術は乏しかったものです。教育番組を定時に聞くのは効率が悪いし、極東放送(当時FEN)は音楽番組が多く、短い早口のニュースは初心者には今一つでした。

そんな時、中学生だった妹がたまたまイギリスのペンパルと文通を始めていて、返事を書くのに苦労しているのに気づきました。そこで兄が時々割り込み、返事を書かせてもらうことにしました。

そのうちにいいアイデアが湧いてきました。当時出た一番安いナショナル小型テープレコーダーを、苦労して貯めた小遣い全部をはたき、やっと手にいれました。そして小さなリールに録音したものを、思い切って手紙に添えて先方に送ってみたのです。中身には「もっと英語の勉強をしたい。いくつか文章を送るので読んでテープに入れてくれませんか?」と録音して。

兄妹のへんな英語を相手は却って面白がったようです。返信をテープで送ってきました。「もちろんOK。文章送ってください。」それは助かるなあ! まずは参考書「英作文の修行」(兄のおさがりでした)の例文を数十個送りました。返信で全部読み上げて送ってくれました。やったぞ!とても有難いテープです。寝る前に繰り返して聞いた結果、全部丸暗記してしまいました。

先方はSheffieldに住んでいたLynda Robertsさんで、小学校教師を目指して勉強中でした。結局のところ、例文を5回以上に分けて、数百あった全部を書いて送って読んでもらいました。相手が読める字を書くのは大変でスペースも食います。途中からは兄のタイプライターを借りて打ちました。そして読んでもらったものを同じように寝る前に繰り返し聞いて、丸暗記しました。それでずいぶん力がついたように思いました、自分が言うのもなんですが。ただ、英語を聞くと眠るという癖もついたように思います。

文通はその後も間歇的ながら長く続き、先方は無事に小学校の教師となり、結婚するとの、近況を知らせる長い手紙が来ました。こちらは大学3年頃でしたが、祝電とお祝いメッセージを録音したテープなどを送ったと記憶します。

それからまた4年後ぐらいに、Lynda Hughes婦人の長い手紙が来ました。こちらは私が仙台に赴任直後で、前の宛先住所から転送されてきました。手紙には、ついに親の家から独立し家を買うことや、テープを送ってないのを気にしていたが、旦那さんのGeoffの協力でやっとテープを作り別送したなどです。

そのテープを期待してしばらく待ちましたが届きません。調べると郵便局の転送期限が過ぎたためとわかり、結局行方不明でどうにもなりませんでした。残念無念でしたが記憶にあるのはそこまでです。最近SNSなどで先方の所在をさがしてみましたが今までのところ見当たりません。

ところで当時の自分の英語の勉強について考えてみれば、会話学校とか、まして留学など到底あり得ない貧乏な環境です。しかし「貧すれば鈍する」とはならないようトライした結果、よい機会に恵まれたと思います。「窮すれば通ず」で先方には今でも感謝。何事も、とにかく挑戦してみるに限りますね。

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ゐなか者 来ないフライト 待ちぼうけ?

いろはかるたの中程にある「ゐ」を使ってみました。それほど古くはないですが、年寄の自慢話の類に属します。1984年3月、30代の時です。お客様の現場をたくさん経験し、私は挑戦意欲満々。一介のSEなのに、プロジェクトの隙間でSE用のシステム開発ガイドを作りたくなりました。思い切って役員に上申したら承認されて予算がつき、半年ほどそれに没頭しました。この話はその時に強く認識した教訓です。

成果がまとまってきて、米国社内のエキスパートとのすり合わせを命じられました。エキスパートの方々の人選は、ダメ元で研究所(脚注*1)に出向いて、そこのマネジャーに快く助けてもらいました。紹介された人達は皆、後で斯界のリーダーとなられた方々で、的確な人選に今でも感謝しています。事前に電話、社内便、当時の社内eメールなどでやりとりした後、先方3名とそれぞれ面会し同意を得る形になりました。

次の図は汚いですが、自分用の日程表からその出張部分を切出したもの。クリックすると大きくなります。

出来事は16日のポケプシーで起きました。

行きの飛行機は小さなプロペラ機でびっくり。乗客は数名で操縦席が見えました。途中揺れまくるので、乗客の一人は「この古い飛行機を落ちるまで使うんだね」との冗談も。

ともあれポケプシーに到着。目的の建物をやっと探し出し、半日の打合せは無事に終了。その帰りです。雪が降りしきる小さな空港で20時のフライトを待ちましたが、それはなかなか飛んで来ません。1時間過ぎても来ないのです。他に旅客が誰もいないので心配になりました。公衆電話から航空会社に電話したら、なんと「フライトはキャンセルの予定ですが・・」。え?

「搭乗券は往復発行されたのに冗談でしょ、凍えそうなのですぐ来て欲しい。今日中にNYに帰る方法が他にありません・・・」。先方は「機体整備が遅れているし搭乗客は1名。車ではダメですかね?」。こちらは「夜遅いのでそりゃ無理、何とかお願いしますよ」。必死の頼みに「お客様、どちらから?」「日本の田舎から一人で・・」とか、だんだん雑談になりました。

そのうちに相手もしかたがないと思ったのでしょうか。しばらくすると「今機体整備が終わったので向かう。1時間ほど待ってください。」やれやれです!コインを食べまくる電話の操作も大変でしたがこの際は仕方なし。1人だけのために空港は閉じられなかったのですが、暖房はとっくに消されて寒いのなんの。しかし電話してよかった!もし何もしないとどうなっていたか?待ちぼうけの結果キャンセルが表示され、ゐなか者が夜中に宿を探す羽目になったかと思うとぞっとします。

そんなことは色々ありましたが、そこでますます確信したLessonsがあるわけです。「ダメ元で挑戦する」ことがなければ、こんなに珍しく、また本当は楽しい仕事の経験はできなかったでしょう、ということです。

ついでに古い資料ですが、日程表にたくさん挟んであった社内ITPS(国際テレックス処理システムだったか、忘れました)受信票の一例です。

発信者R.Taboryはワトソン研にいたソフトウェアの権威、一介のSEの求めに対し、気さくに迅速に応じてくれるのが凄いと思いました。ダメ元で挑戦してみるからこそ、初めて何らかの機会がやってくることを実感したのでした。

世の中は余裕も隙もない現代へと向かってきたように見えます。こういう恵まれた環境は今や多分どこにもないでしょう。しかし、ダメ元でやってみるという勇気は、物事を前に進めたりカベを打破したり、場合により苦境から立ち直るチャンスを作ることは確かです。今個人事業を始めて15年、好きなことを楽しみながら苦労を重ねていますが、この教訓がどこでも役立つことをしばしば確かめてきた次第です。

注*1: Japan Science Institueで東京基礎研究所の前身。当時千代田区三番町にあった。 Laszlo Beladyはそこのマネジャー。略称Les Beladyさんは世界中で長らくご活躍され、その後も何度かたいへんお世話になりました。

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救われた その一言が きっかけで

予想外に課長に昇格してしまった時にそれは始まった。
正確には課長扱いであった。(社内の)資格がまだ到達していなかったためである。
自分より前の世代の方がかなり退職されていたこともあり、若くしてお鉢が回ってきたというところであろうか。
その課は何年か前までは飛ぶ鳥も落とす勢いであったが、ここ数年は過去に出荷した製品のトラブルが多発して毎期赤字を出し続けている部門であった。社員の多くが各所のトラブル対応に出払っているという状態であった。
わたしは当時別の部門に所属していた。現地で苦戦していた大型案件に途中から入ってほぼ1年近くかけて落ち着かせ、次の開発を進めていた。その赤字部門に対しては批判的でその事業は止めたらと言ったこともあった。
だから、まさか自分がそこの部門の長に異動になるとは思いもよらなかった。口は禍の元である。
当然居心地は良くない。
それ以上に頭が痛かったのが、課長級以上の技術専門職だけでなく、主任クラスもみんな自分よりも年上のベテラン揃いであること。
その部門は自分の専門ではないので、どうしても彼らの話を聞きながら進めざるを得ない状況であった。
しかし、それをやっていてはスピーディに品質改善や赤字脱却への活動が進まないという悩みがあった。これまでの自分のやり方でやっても付いてきてくれないのでは、一緒にやってくれないのではないかと年上の方々への遠慮もあって苦悩の毎日であった。
そんな状態で2か月が過ぎようとしていたときに、前任の50代の課長(この方も全く別の部門から来られて1年でわたしに交代)から声をかけられて次の助言を頂いた。
「周りに遠慮せずに、自分の思うように、考えるようにやりなさい。
自分の考えでやってみて、ダメなら自分の考えがダメだったと納得もするし、反省して次に生かせるけど、周りに言われてやっても得るものないよ。」
これはわたしにはとてもありがたい言葉であり、これまでの悩みは吹っ切れて、精神的には楽になった。
それ以降、最後は自分の考え、やり方でやるようにして、徐々に赤字を減らして2年目の下期には赤字脱出を果たすことができた。
この一言を頂いた(ひと回り上の)大先輩には本当に感謝しており、今は自分より若い人たちに同じような場面があれば、この言葉をかけている。

財布を家に忘れて来た!

「嫌な失敗はさっさと忘れ去る、そのためには思い出さないこと」を長年実践していました。ところが失敗録を書こうということで、ついに思い出してしまいました^^; ある日お客様とのある周年祝賀会がありました。遠い昔のことかと思いましたがなんと僅か4年前、2017年11月のことでした。

午後に大学で講義をした後、時間があったのでいったん帰宅、着替えて出直したのが間違いの元でした。まずいことは重なるもので、電車が珍しく30分も遅延。会場至近の有楽町駅に着いたら開宴時間が間もなくです。改札を出る時に財布を家に忘れたのに気づきました。クレジットカードもそれに入れてあるわけで、「アッ」と思っても後の祭りでした(汗)。

遅刻できませんから会場へタクシーで急ぎたいのですが、小銭入れにも数百円しかありません。「二次会もありそうだしこれはたいへんだ!!」とっさに考えたのは「とにかく会場に着けば知人に借りられるだろう・・・、とりあえずはSUICAにチャージしたばかりだ、1万円ぐらい入ってる!」と。早速窓口へ行くと「SUICA残高から換金はできません!」とのこと。ありゃ、そうか(さらに汗)。

近くにいた駅員さんを捕まえて訳を話すと「お勧めはできませんが、例えば大阪行き乗車券を買って行き先変更すると・・・」??アッそうか!すぐ大阪行き切符を購入し、東京への行先変更をしました。手数料はかかりましたがなんとか現金をゲット。

駅から走ってタクシーをやっと捕まえ、開宴間近の会場へたどり着きました。着いた時は大汗でしたが、無事知人にお金を借りることができました。もちろん翌日の返金振込先もお聞きして。きわどいところをとても助かりました!!

なにせお客様多数のトップが来られ、来賓も多数。記念撮影もあり、特設の二次会もあったのでした。一歩間違えたら大変なことになったなあと考えると、今でもゾッとします。何食わぬ顔で出させていただき楽しみましたが、大いに反省をしたことでした。

それ以来、「移動時間には余裕を十分とる」ように心がけていますし、持ち歩く鞄や小銭入れに札も忍ばせることに。

とはいうものの、このところ外出自粛が長く続いているので、そういう準備の出番がありません。自粛期間が早く明けて欲しいものです。

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荷物の置き忘れ

「座席、網棚、忘れ物なし!」
というのが、わたしの電車から降りるときの行動(指差呼称)です。さすがに大きな声では言いませんが。、
電車に荷物を置き忘れたことはありませんか?
長年、傘を含めて、電車に忘れ物などしたことがなかったわたしですが、50歳を過ぎた当たりから何回か置き忘れをするようになりました。座ったり、網棚に荷物を置いた時は、降車時にはふりかえることにしています。
最初の忘れ物は、都内の書店で本を買って、網棚に本の入った紙袋を置いたまま電車を降りてしまったことです。すぐに気づいて東京駅の遺失物センターに届けましたが、結局最後まで連絡はありませんでした。
2回目は百貨店で買った品物を手提げ袋に入れて、これまた網棚に置いて電車を降りる際に忘れてしまったことです。この時は、降りてすぐに気づいたのですが、ドアが閉まってしまいました。前回の経験があったのと、たまたま品川駅であったので、忘れ物承り所にすぐに駆け付けました。すでに2人ほど並んでいました。焦りはありましたが、仕方がありません。ようやく自分の順番になり、乗っていた列車(東海道線)と車両のどこに荷物を置いていたかを伝えました。電車はどんどん先へ進んでおり、次に確認するのは、浦和駅になるとのことでした。ダメもとで浦和駅まで行くことを伝えて電車に乗りました。浦和駅に到着して、受付窓口に行くと、忘れ物が何か、どういった袋か、など聞かれて、運よく見つかりました。しっかりと浦和駅までの乗車賃も取られました。
二度も忘れ物をしたこともあり、今まで忘れたことはないのに何が違うのかと考えました。
その結果気づいたことは、いずれもいつも持ち歩くカバンとは別に普段は持たない紙袋なり、手提げ袋なりを持っていたことで、それを網棚に置いたことでした。 普段のカバンはいつも通り肩にかけていました。
そして、いずれの時も本を読んでいたことでした。
電車が降りる駅に着いた時には、いつもの感覚でそのまま降りてしまったのです。
いつもの習慣が、他に荷物があることを忘れさせていたのです。
これ以来、普段のカバン以外に荷物がある場合は、普段のカバンも一緒に網棚に載せることにしました。そうすることで、普段のカバンを網棚から降ろすときに一緒に他の荷物にも気づくように意識的に変えました。
それ以来、網棚に忘れ物をすることは今のところなくなりました。さらに歳を取るとどうなるか分かりませんが。
降りる際の座席に対する指差呼称は、ポケットやカバンから小物が落ちて気づかずに降りようとする人を何度か見かけてから自分も気をつけようとして、追加したものです。
忘れ物をしてしまうと、完全に自分が悪いだけにショックが大きく、(わたしの場合は)自己嫌悪になってしまいます。
そうならないように、今日も「座席、網棚、忘れ物なし!」。

~田中史朗