カテゴリー別アーカイブ: 6 プロフェッショナルとしての強み

「淡々と」 言われ続けて 今わかる

数十年前、新卒で某大手コンピュータメーカーに入社した僕は、研修後、お客様担当のSEとして社会人生活を始めた。当時、指導を受けていた直属の先輩SEは優秀、かつ仕事に妥協を許さないタイプで、本当に厳しく、何度も叱られ、スパルタ教育を受けた。研修での成績が良かったので、期待もしていたのだと思う。ただ、僕は、学生から社会人へとマインドセットを変えることがなかなかできず、何年もの間、満足できる業務上の成果を上げることができないでいた。それでも、次から次へとやるべきことは降ってくる。To Doの山に埋もれながら、その先輩SEと自分を比べて、「自分は本当はできない人間なんじゃないか」という懐疑心にさいなまれ、不安と苛立ちの中、日々の仕事を何とかこなしていた。

深夜まで仕事をすることも多かったが、そういった時、隣の先輩SEがよく、「川﨑、淡々とやるんだ。泣こうが、わめこうが、やることは変わらないだろ。だから、感情を動かさないで淡々とやるんだ」と話しかけてきた。しかし、当時の僕はその言葉を聞いて、「淡々と仕事できないのは、あなたのせいでもあるだろ」くらいの気持ちしか湧いてはこなかった。

そうこうしている内にやっと仕事にも慣れ、自分なりの成果の上げ方も分かってきたが、留学を契機に会社を辞めた僕は今、中小企業の経営者として働いている。その中で、デスマーチプロジェクトで苦しんだ時、資金繰りに窮して天を仰いだ時、大事な打合せを前にした時、「淡々とやるんだ」という先輩SEの言葉をふと思い出していた。言われたその時は分からないけれども、後になって思い出し、自分を支える言葉があることを知った。感情を乱してもやるべきことは変わらない。だとしたら今できることに集中する。そして自分ではコントロールできないことは天にゆだねる。そういった思いを胸に、仕事も私事も当たっていこう。そう決意する礎になった大切な言葉となった。

© 2022 Masao Kawasaki, All rights reserved.

寝る前の 英語のテープ 子守歌

高校時代に、何がきっかけか忘れましたが英語のヒアリングを無性に勉強したくなりました。当時の教材は主に高価なレコード(!)で、貧乏学生にはネイティブ英語を聞く術は乏しかったものです。教育番組を定時に聞くのは効率が悪いし、極東放送(当時FEN)は音楽番組が多く、短い早口のニュースは初心者には今一つでした。

そんな時、中学生だった妹がたまたまイギリスのペンパルと文通を始めていて、返事を書くのに苦労しているのに気づきました。そこで兄が時々割り込み、返事を書かせてもらうことにしました。

そのうちにいいアイデアが湧いてきました。当時出た一番安いナショナル小型テープレコーダーを、苦労して貯めた小遣い全部をはたき、やっと手にいれました。そして小さなリールに録音したものを、思い切って手紙に添えて先方に送ってみたのです。中身には「もっと英語の勉強をしたい。いくつか文章を送るので読んでテープに入れてくれませんか?」と録音して。

兄妹のへんな英語を相手は却って面白がったようです。返信をテープで送ってきました。「もちろんOK。文章送ってください。」それは助かるなあ! まずは参考書「英作文の修行」(兄のおさがりでした)の例文を数十個送りました。返信で全部読み上げて送ってくれました。やったぞ!とても有難いテープです。寝る前に繰り返して聞いた結果、全部丸暗記してしまいました。

先方はSheffieldに住んでいたLynda Robertsさんで、小学校教師を目指して勉強中でした。結局のところ、例文を5回以上に分けて、数百あった全部を書いて送って読んでもらいました。相手が読める字を書くのは大変でスペースも食います。途中からは兄のタイプライターを借りて打ちました。そして読んでもらったものを同じように寝る前に繰り返し聞いて、丸暗記しました。それでずいぶん力がついたように思いました、自分が言うのもなんですが。ただ、英語を聞くと眠るという癖もついたように思います。

文通はその後も間歇的ながら長く続き、先方は無事に小学校の教師となり、結婚するとの、近況を知らせる長い手紙が来ました。こちらは大学3年頃でしたが、祝電とお祝いメッセージを録音したテープなどを送ったと記憶します。

それからまた4年後ぐらいに、Lynda Hughes婦人の長い手紙が来ました。こちらは私が仙台に赴任直後で、前の宛先住所から転送されてきました。手紙には、ついに親の家から独立し家を買うことや、テープを送ってないのを気にしていたが、旦那さんのGeoffの協力でやっとテープを作り別送したなどです。

そのテープを期待してしばらく待ちましたが届きません。調べると郵便局の転送期限が過ぎたためとわかり、結局行方不明でどうにもなりませんでした。残念無念でしたが記憶にあるのはそこまでです。最近SNSなどで先方の所在をさがしてみましたが今までのところ見当たりません。

ところで当時の自分の英語の勉強について考えてみれば、会話学校とか、まして留学など到底あり得ない貧乏な環境です。しかし「貧すれば鈍する」とはならないようトライした結果、よい機会に恵まれたと思います。「窮すれば通ず」で先方には今でも感謝。何事も、とにかく挑戦してみるに限りますね。

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ゐなか者 来ないフライト 待ちぼうけ?

いろはかるたの中程にある「ゐ」を使ってみました。それほど古くはないですが、年寄の自慢話の類に属します。1984年3月、30代の時です。お客様の現場をたくさん経験し、私は挑戦意欲満々。一介のSEなのに、プロジェクトの隙間でSE用のシステム開発ガイドを作りたくなりました。思い切って役員に上申したら承認されて予算がつき、半年ほどそれに没頭しました。この話はその時に強く認識した教訓です。

成果がまとまってきて、米国社内のエキスパートとのすり合わせを命じられました。エキスパートの方々の人選は、ダメ元で研究所(脚注*1)に出向いて、そこのマネジャーに快く助けてもらいました。紹介された人達は皆、後で斯界のリーダーとなられた方々で、的確な人選に今でも感謝しています。事前に電話、社内便、当時の社内eメールなどでやりとりした後、先方3名とそれぞれ面会し同意を得る形になりました。

次の図は汚いですが、自分用の日程表からその出張部分を切出したもの。クリックすると大きくなります。

出来事は16日のポケプシーで起きました。

行きの飛行機は小さなプロペラ機でびっくり。乗客は数名で操縦席が見えました。途中揺れまくるので、乗客の一人は「この古い飛行機を落ちるまで使うんだね」との冗談も。

ともあれポケプシーに到着。目的の建物をやっと探し出し、半日の打合せは無事に終了。その帰りです。雪が降りしきる小さな空港で20時のフライトを待ちましたが、それはなかなか飛んで来ません。1時間過ぎても来ないのです。他に旅客が誰もいないので心配になりました。公衆電話から航空会社に電話したら、なんと「フライトはキャンセルの予定ですが・・」。え?

「搭乗券は往復発行されたのに冗談でしょ、凍えそうなのですぐ来て欲しい。今日中にNYに帰る方法が他にありません・・・」。先方は「機体整備が遅れているし搭乗客は1名。車ではダメですかね?」。こちらは「夜遅いのでそりゃ無理、何とかお願いしますよ」。必死の頼みに「お客様、どちらから?」「日本の田舎から一人で・・」とか、だんだん雑談になりました。

そのうちに相手もしかたがないと思ったのでしょうか。しばらくすると「今機体整備が終わったので向かう。1時間ほど待ってください。」やれやれです!コインを食べまくる電話の操作も大変でしたがこの際は仕方なし。1人だけのために空港は閉じられなかったのですが、暖房はとっくに消されて寒いのなんの。しかし電話してよかった!もし何もしないとどうなっていたか?待ちぼうけの結果キャンセルが表示され、ゐなか者が夜中に宿を探す羽目になったかと思うとぞっとします。

そんなことは色々ありましたが、そこでますます確信したLessonsがあるわけです。「ダメ元で挑戦する」ことがなければ、こんなに珍しく、また本当は楽しい仕事の経験はできなかったでしょう、ということです。

ついでに古い資料ですが、日程表にたくさん挟んであった社内ITPS(国際テレックス処理システムだったか、忘れました)受信票の一例です。

発信者R.Taboryはワトソン研にいたソフトウェアの権威、一介のSEの求めに対し、気さくに迅速に応じてくれるのが凄いと思いました。ダメ元で挑戦してみるからこそ、初めて何らかの機会がやってくることを実感したのでした。

世の中は余裕も隙もない現代へと向かってきたように見えます。こういう恵まれた環境は今や多分どこにもないでしょう。しかし、ダメ元でやってみるという勇気は、物事を前に進めたりカベを打破したり、場合により苦境から立ち直るチャンスを作ることは確かです。今個人事業を始めて15年、好きなことを楽しみながら苦労を重ねていますが、この教訓がどこでも役立つことをしばしば確かめてきた次第です。

注*1: Japan Science Institueで東京基礎研究所の前身。当時千代田区三番町にあった。 Laszlo Beladyはそこのマネジャー。略称Les Beladyさんは世界中で長らくご活躍され、その後も何度かたいへんお世話になりました。

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救われた その一言が きっかけで

予想外に課長に昇格してしまった時にそれは始まった。
正確には課長扱いであった。(社内の)資格がまだ到達していなかったためである。
自分より前の世代の方がかなり退職されていたこともあり、若くしてお鉢が回ってきたというところであろうか。
その課は何年か前までは飛ぶ鳥も落とす勢いであったが、ここ数年は過去に出荷した製品のトラブルが多発して毎期赤字を出し続けている部門であった。社員の多くが各所のトラブル対応に出払っているという状態であった。
わたしは当時別の部門に所属していた。現地で苦戦していた大型案件に途中から入ってほぼ1年近くかけて落ち着かせ、次の開発を進めていた。その赤字部門に対しては批判的でその事業は止めたらと言ったこともあった。
だから、まさか自分がそこの部門の長に異動になるとは思いもよらなかった。口は禍の元である。
当然居心地は良くない。
それ以上に頭が痛かったのが、課長級以上の技術専門職だけでなく、主任クラスもみんな自分よりも年上のベテラン揃いであること。
その部門は自分の専門ではないので、どうしても彼らの話を聞きながら進めざるを得ない状況であった。
しかし、それをやっていてはスピーディに品質改善や赤字脱却への活動が進まないという悩みがあった。これまでの自分のやり方でやっても付いてきてくれないのでは、一緒にやってくれないのではないかと年上の方々への遠慮もあって苦悩の毎日であった。
そんな状態で2か月が過ぎようとしていたときに、前任の50代の課長(この方も全く別の部門から来られて1年でわたしに交代)から声をかけられて次の助言を頂いた。
「周りに遠慮せずに、自分の思うように、考えるようにやりなさい。
自分の考えでやってみて、ダメなら自分の考えがダメだったと納得もするし、反省して次に生かせるけど、周りに言われてやっても得るものないよ。」
これはわたしにはとてもありがたい言葉であり、これまでの悩みは吹っ切れて、精神的には楽になった。
それ以降、最後は自分の考え、やり方でやるようにして、徐々に赤字を減らして2年目の下期には赤字脱出を果たすことができた。
この一言を頂いた(ひと回り上の)大先輩には本当に感謝しており、今は自分より若い人たちに同じような場面があれば、この言葉をかけている。

マルチステージの時代に

寿命の伸びは世界各国で顕著です。この60年ほどを見れば次のグラフのようになっています。日本では1947年から詳しい統計がとられていますし、欧州各国では19世紀半ば、または1920年代から作成されてきたのに驚きます。公開されている“Human mortality database”に蓄積された38か国のデータの中で、上昇傾向以外の複雑な動きはロシアだけで他に例外はみあたりません。(図が見づらい時はクリックしてご覧ください。)

例えば2007年に生まれた人の平均寿命は軽く100歳を超えるとの予測がされています(注1)。ところが先進国の人口ピラミッドは次のような形で、高齢者をささえる若年層が不足しています。改善の努力が先進国で行なわれてきましたが、ご承知のとおり日本は先細りが直っていません。ここに示しませんが、例えばインドやマレーシアでは各国の寺院の屋根のような形、アフリカ諸国では下辺の広いピラミッドです。(図が見づらい時はクリックしてご覧ください。)

若年層が少ないと平均寿命に影響するのかちょっと気になりますし、イスラエルの人口構成がきちんとしているのにも驚きます。少し脱線しますが、疑問を解くため年齢別の死亡率を調べたところ、高齢層と若年層では桁違いの差があり平均寿命に殆ど影響しないことが分りましたので更新しておきます。下の図は日本とイスラエルの比較です。

要するに平均寿命は純粋に伸びています(米英等で最近になって横ばい気味なのが気にはなりますがきっと原因があるでしょう)。仕事時代より退職後が長くなっているでしょうし、それを支える長い「年金生活」という発想は成り立ちにくくなるでしょう。

人生が1)学び、2)勤め、3)隠居の3ステージから成るという過去の観念は捨てる必要があるでしょう。ステージが混じり繰返すような「マルチステージ」(注1)の人生が増えるというわけです。日本では15歳未満と65歳以上が被扶養層と定義されていますが、70歳、さらに80歳まで仕事をするのが常識となるかもしれませんし、年齢だけでの差別はなくしていくべきと思えます。

最近のパーソナルPMコミュニティの会合で、メンバーの徳永光彦さんがマルチステージを取り上げられたのに触発され、筆者を含め多くのメンバーが現代の人生におけるその重要性に改めてフォーカスしています。一人では気づきにくいことも皆と検討すると気づくことの典型でしょう。

若手メンバーの柳沢大高さんは、スキル修得に関する執拗な研究成果の一端を、一般向け書籍として書かれています。8月23日に発行されることになりました。マルチステージへ向けた「学び」へ正面から向き合うための格好の書となることを期待しています。

改めて身近な人たちを見回せば、マルチステージを実践している人は既にたくさん居るのに気づきます。皆様の周囲にもおられるでしょうし、考えてみれば筆者もその仲間です。それが続けられるためには健康が第一ですし、自分で考えるミッション(目的の構造化)、柔軟な思考や新しいことを受容れる姿勢などがますます大事になると思います。

パーソナルPMコミュニティでは2018年10月14日(日)の午後、「パーソナルPMシンポジウム2018」(参加無料)を都内で主催することとなりました(満席となりお申し込みを締め切らせて頂きました)。

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その中で徳永さんのマルチステージ実践に基づく発表も予定されています。投稿が長くなり過ぎるため、「パーソナルPMシンポジウム2018」については後ほど別投稿としてご案内したいと思います。パーソナルPMに少しでもご興味をお持ちになられたら、どなたでも気楽にご参加いただけるようお待ちしています(すでに満席となりお申し込みを締め切らせて頂きました)。

(注1)Lynda Gratton & Andrew Scott, The 100 year Life,2016. 池村千秋訳、ライフシフト、東洋経済新報社、2016.

©2018 Akira Tominaga. All rights reserved.

 

禅に学ぶパーソナルPM

2016年10月、上野の東京国立博物館で特別展「禅―心をかたちに-臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念」が開催されていました。友人と連れだって週末に立ち寄ったところ、なかなかの盛況ぶりでした。

禅は仏教の宗派の一つで、仏教の教えの中心である「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」のうち、特に「定」(=心を鎮める、収める)を重視しています。ヨガに起源をもつ坐禅は、「定」を得るための方法論と言えます。昨今人気の「マインドフルネス」も、ストレスを軽減し集中力を高める効果があるとして、米国のIT企業が社員教育に採用するなどしたことから日本でも注目されているようです。アップル創業者スティーブ・ジョブズがかつてカリフォルニアで曹洞宗(日本の二大禅宗の一つで、中国に留学して禅を学んだ日本人僧侶・道元を開祖とする宗派)の僧侶、乙川弘文老師の教えを受けていたというのも、マインドフルネスの人気に影響したことでしょう。

原始仏教の姿をより濃く残し、中国・老荘思想の影響を受けたとされる禅は、宗教というより哲学に近いとも言われます。じっさい、禅宗では「あの世」や「幽霊」、「地獄」というものを信じませんし、特定の「神」や開祖に依存することもありません。あるのは「己事究明」=自らを知る、のみです。

禅宗を含む日本仏教が誤解されがちな点に仏教=葬式用、という認識があります。たとえば戒名についても、お坊さんが儲けるための方便、との疑いを持ってしまいがちです。しかしそもそも戒名をつけるというのは仏道の修行者になるということで、本来ならば生存中になっておくべきところ、それが叶わなかったので、死出に赴くにあたり最期に仏道修行者となり戒名をもらう、という意味があります。ここで、「あの世」「地獄」を信じないなら亡くなった後のことを心配するのはおかしい、ということになります。それでもそうしたことをするのは、葬儀自体、故人のためだけのものではなく遺族をはじめ故人を見送る者たちのためのものでもあるからです。戒名をつける、あの世で困らないようにと棺にお金を入れる、あるいはいつまでも一緒にとの願いから生前の家族写真を入れる、というのも、それによって遺族自身が慰められる行為と考えます。じっさい、日ごろ迷信めいたことは一切信じていなくても、親しい人や可愛がっていたペットを亡くした時など、「あちらにいる」と思うことでなんとなく気持ちが安らぐ経験をしたことがあるのは私だけではないと思います。同じように、「幽霊」を信じないからと言って、それを見た、と言っている人を頭ごなしに否定するようなこともしません。その人が見たと認識するなら、その人にとっては見えたのでしょう。「幽霊」なんて迷信だ、などと自分の考えにこだわるような事はしないのです。禅では執着すること、とらわれることをもっとも嫌うからです。さらに言えば執着しないことにも執着しません。ここまで来ると禅問答の世界に感じられてきますが、言わんとするところはわからなくもないように思います。親しい人を亡くして悲しんでいる人を慰めることが善行であるならば、「地獄」「幽霊」の有無など二の次です。なすべきことをなすために自由自在、なのです。

時間についても同様です。坐禅中は過去にも未来にもとらわれず、「即今只今(そっこんただいま)」といって、その瞬間瞬間に意識を集中させることを良しとします。このことは「捨てる」とも表現されます。すべてのとらわれを捨てて坐禅する、日常生活であれば目の前の仕事に集中するということでしょう(これはラーキンが提唱するインスタントタスクにもつながるかもしれません)。

そして、この「捨てる」作業がストレス軽減と集中力増進につながるようです。仏教的には、こうして得られる心の落ち着きが他人への思いやりや勇気となり、その結果、より良い生き方ができるとします。そして日本仏教を含む大乗仏教ではさらに、自分だけでなく周りの人もそうした生き方ができるよう助けることで国の平安が得られる、とします。

そのような大乗仏教的な考え方は大げさとしても、自分を知り、自分を信じ、さらに自分の心が何かにとらわれることを戒める、というのは、パーソナルPMの実践においても役に立つと思っています。

※ここで述べた「禅」に関する考え方はあくまで私個人の理解によるものです。より正しい理解と実践を求める方は、各種ある禅の入門書を読むか、坐禅会を開催しているお近くの禅寺に足を運ばれることをお勧め致します。

共有の喜びこそが目的のプロジェクトもある

地元の幼稚園の校舎と園庭をお借りして、ボーイスカウト、ガールスカウト、大学のサークルといった団体が参画するお祭りの実行委員長を、この十年以上、やってきました。20軒近い出店が並び300~400人を動員するくらいの比較的小規模なイベントですが、40年以上の歴史があり、小中学生の時は私自身、ボーイスカウトとして参加していました。

大人になり、実行委員長としてこのお祭りの準備に関わり始めた時、ガントチャートもなく、網羅的なTo Doリストもなく、そして当日の段取り表も貧弱で、ノウハウを継承しずらい、カオスな状態に思えました。そこで以降、スケジュール表を精緻化し、To Doリストの網羅性を高め、当日の段取り表を充実させるべく、数年がかりで資料のブラッシュアップを進めていきました。特にTo Doリストについては、「これらの項目を一つずつこなしていけば自動的にお祭りが開催できる」レベルのマニュアルに仕上げました。

結果として、お祭りは機械的に準備できるようになり、ワークロードは下がり、実行委員会も少人数で回せるようになりました。ただ、こういった形でお祭りを続けていく中で、「このやり方は、果たしてお祭りの目的を満たすことに寄与しているのだろうか」という疑問が大きくなっていきました。お祭り自体はスムーズにつつがなく開催できるようになり、実行委員会としては成功と言っていい状況ではあったのですが、私も周囲の人たちも、以前よりお祭りを楽しめなくなっていたのです。

「最小の労力で効率よくお祭りを開催する」ことが目的であるならば、私のやり方はきっとその成功に寄与していたのでしょう。しかし、お祭りはそういった経済原則に従うわけではなく、たとえ非効率であったとしても、多くの人たちがその実現に関わり、「ああでもない、こうでもない」と作り上げていくプロセスをともに歩み、そして「うまくいってよかった」と喜びを分かち合うこと、すなわち“共有すること”自体が目的であることに遅まきながら気付いたのです。ノウハウが共有しずらいこと自体が話し合いの必要性を高め、カオスなことがある意味、成功体験共有の幸福感を増幅することに気付きました。それ以来、「事故や怪我がないこと」「開催自体が危ぶまれるような失敗をしないこと」を最低限、満足できるよう、あえて資料の詳細度を下げていきました。そうすることで、ちょっとした失敗すら楽しめる、そういった失敗が翌年の新しい試みにつながるような形を目指すことにしました。

この個人プロジェクトを通じて、「最小限の工数で期日通りに高品質で完了させる」という考え方が、全てのプロジェクトに通用するわけではないことを知りました。他方、仕事としてのプロジェクトでは、QCD(Quality, Cost, Delivery)の最適化は最重要として避けられないものと思います。その制約の中にあったとしても、プロジェクトメンバーやステークホルダーとの共有の喜びを失ってはいけないと、この経験は私に教えてくれました。

成功を他人と共有する!

昔話をすると歳が知れるのですが、このLessons Learnedを書くためには避けて通れそうにありません。

その昔、東北に赴任し、複数のプロジェクトをかけ持ってどれも予定どおり完了しないといけませんでした。昼の移動は時間がもったいないので夜行列車で動き、車内で準備したりしていました。成果が出ると会社の表彰を次々に受け、仕事に自信がつき始めていました。

そこへ大先輩のセールスマンが言いました。「自分だけで結果が出せていると思うな、裏方もいるのだから」。最初は言訳が口に出たのですが、内心ではプロジェクト成功以外は何も考えていない自分に気づかされました。反省したその後も何度か繰り返してしまいました。

東京に戻ったあとですが、新しいプロジェクト複数の経験の後、今度は大プロジェクトを率いていました。お客様は1件なのですが組織がたくさんあり、お客様の各組織とのコミュニケーションが不可欠でした。そうこうするうち、社内を軽視する同じ癖が再び出ていたのです。営業トップから私に一言ありました。「あっ、同じだ」と成長しない自分に呆れ、今度は言い訳などせず、態度を直す努力を始めたのが唯一の進歩でした。しかし簡単なことではありませんでした。

数年後、プロジェクトの事業を率いていました。色々な改善を進めただけでなく、危ないプロジェクトを早くみつけ問題を未然に防ぐことは事業の成長に欠かせません。判明次第自分の直下にそのプロジェクトを異動し、全力で挽回に努めました。数年経って業績や顧客満足度に成果が表れてきました。過去の反省から社内の大勢のモチベーションを欠かさない一方で、いつの間にかシニアな人達は放置するというパターンに陥っていました。もし問題があっても叱れば直してくれる強い人達と安易に考えていたのです。

しかし皆人間ですから強さに大差はありません。今度は同僚の役員からいわば仕事の独占というような指摘です。こうなると表面の態度の問題ではなく、考え方、つまり自分の座標軸には何か不備があると考え始めました。何のために仕事をするのかだけでなく、どんな人生を生きるかということに通じる課題です。そのような失敗を繰り返しつつも、忙しい中でそれを考えるようになりました。

答は簡単ではありませんでしたが、何度も考え書籍を読んだりしてやっといくつかの新しいLessonsに気づくことになりました。その一つが個人的成功を他人と共有するということです。私自身の過去の問題への共通の解答でした。

これを含め複数の新しい教訓にたどり着いたとき、私は無性に後進の指導を始めたくなりましたが、仕事の環境がそれを許してくれません。ここぞとばかり難しいプロジェクトの支援に送り込まれました。並行して大学院複数で夜間に教鞭をとり始めたのはそこからです。あ、やはり年寄りの昔話に陥った感じです。皆様の成果に結びつけるための昔話ですからどうぞ御容赦ください。

©2017 Akira Tominaga. All rights reserved.

時には、上司に対してリーダーシップ発揮する場面も

リーダーシップとは、「目標を設定し、他人に影響力を発揮して、目標の達成を目指して望ましい行動を起こさせること」です。組織では、上司が部下を鼓舞して指揮命令を発揮して、組織の目標達成にまい進するという風な印象を持っておられる方が多いと思いますが、パーソナルPMの視点では、異なります。ステークホルダーとして考えられるのは、仕事では上司、場合によっては、同僚、後輩、家庭では、家族、特に配偶者です。よって、上記ステークホルダーに対して、影響力を発揮し、目標を達成する必要があるからです。

自身の例ですが、会社で品質文書を改訂し、上司に説明・承認いただくといった時にも影響力を発揮しなければならないと感じことがありました。事業責任者に説明し、検印いただくときに、普段会話をしている直属の上司と同じように、変更点を中心とした説明をしたために、事業責任者から理解が得られず、承認いただけなかった経験があります。この場合、自身の視点ではなく、事業責任者の立場にたち、品質文書の内容はともかく、事業責任者の考えを常に掴む努力をし、細かい説明よりも、経営的な側面で全体の流れや変更内容をわかりやすく説明すればよかったと反省しました。

影響力を発揮するとは、要因としてどういうものがあるのでしょうか? チャルディーニ「影響力の武器」にもありますが、そのひとつに「権威」があります。ただ、パーソナルPMでは、期待できません。 専門性でリーダーシップを発揮するという考えもありますが、限られた領域だけしか通用しません。そこでもっとも大切なのが、あの人のいうことなら何でも信用できるという信頼感です。
また、前記「影響力の武器」にて、「一貫性」も、大切な要因のひとつに分類されています。一貫している信念は、困難な場面において特に必要とされます。信念と実際の行動が異なる人は、疑念の目で見られることがあります。一貫している人の方が尊敬されます。

一貫している考え方の源泉は、明確なミッションとビジョンを持つことです。
ミッションは存在理由で、人生の目的や会社生活の目的といったことがあげられます。人生の目的を明確にすることが、強い動機に繋がります。

幕末、吉田松陰が「松下村塾」の塾生に向かって。「よく、君の志は何ですか?」といった問いかけをしたとのことですが、ミッションは「志」に相当します。その「志」が、明治維新に向かった原動力になったことに違いはありません。

ミッションの次に大切なのが、ミッションを達成するためのビジョンです。通常は、いつまでといった期限を意識した目標になります。ミッションから見れば、マイルストーンです。
このようなぶれないミッションを持ち、当面の目標としてビジョンを意識することが、一貫性を持つことに役立ちます。

© 2015Mitsuhiko Tokunaga, All rights reserved.

プロフェッショナルの仕事を真似るには

記事をうまく速く書くにはどうするのかと、それを仕事にしているメンバーの谷島記者に皆で伺ったことがあります。すると「記事は結論から先に書くもので、起承転結のむしろ反対。逆三角形です。」と教えられ、皆で感心したものでした。

なぜなら我々が学校で習ったのは、なんでもかんでも起承転結にすることでしたから。五言絶句やらソナタ形式やら、さらに学科でなくとも4コマ漫画でもなんでも同じパターン。○○の一つ覚えで、仕事に就いてからしばらくはお客様にその順序で説明をし、忙しい相手がイライラしたことが何度もあります。

相手の立場で考えることは、プロフェッショナルの仕事なら常に共通ではないかと思います。さらに、仕事の究極の目的を「お客様の繁栄」に据えることによって、社内事情にとらわれずにお客様のために全力が出せると思います。

しかしそこで役立つ仕事のコツは、全部自分で考え出すよりは、優れたプロフェッショナルに習う方が良いことが多々あります。例えば私の場合、システム作りで「先に業務を徹底的に単純化する」ということを、良い先輩に早く習ったからうまく身につけられたと今でも有難く感じています。他にも習ってはじめてわかったということが沢山あります。習わなければ知りえなかったかもしれません。

一方で、一言で書けるコツはどれも分りやすいのですが、物事をどう進めるかについてはなかなかそう簡単にはいきません。わかる大きさに仕事を分解することで、初めて共有ができます。つまりプロジェクトマネジメントのWBS(Work Breakdown Structure)です。冒頭の記事の書き方を習ったものの概要をここに勝手に示します。どこかに散逸しないためにも。

(もし見えにくい場合は図をクリックしてください。)

記事執筆WBS

このスライドがご本人の伝えたいとおりになっているかどうか、自信があるわけではありません。しかし、こういうことを習っただけで、私たちの記事の書き方はそれ以来、とてつもなく進歩し速く書けるようになったのは間違いないと感じます(しかし、ご覧のとおり教えられたようにできていないのではありますが)。

込み入った活動の模範的なやり方をWBSにして活用することはモダンPMの知恵ですが、個人が良い仕事をするための大事な知恵でもあると思います。皆様のご経験ではどうでしょうか?

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