「To doは目的に準じる」という当たり前だけど難しいこと・・・

「やることが多すぎるんだよなぁ・・・」

といつもは不満たらたらなのに、「この数日中にやらなくてはならないTo do全て消化し切ってしまう」ようなことがたまに発生すると、何だかとても不安になり、うろたえることがあります。

こんな気持ちになる度に、「もしかしたら自分は、やることが目の前に山と積まれている状況がしんどいのではなく、逆にそれを望んでさえいるのではないだろうか」と感じます。ベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み立てるロボットは、何のためにその部品を組み立てているのか知りません。同じように私も、目の前に積まれていくTo doにトリガーをかけられ、イベントドリブンで処理する作業に埋没することで、「果たして何のためにこのTo doをやっているのか」「自分が今やるべきことは本当にこれなのか」といった命題を忘れてしまっているのです。いや、それ以上に、忘れている状態がある意味、心地いいからこそ、目の前のTo doが無くなった状況に対して怖れを感じるのではないか、と思うのです。

ドラッカー教授は、「To doの緊急度と重要度とを明確に区別し、自らの時間を意識的に管理しようとしなければ、“緊急ではあるが重要でないこと”に時間のほとんどが費やされてしまい、“緊急ではないが重要なこと”にかける時間がなくなってしまう」と喝破されました。思うに、“緊急なこと”は誰でもすぐに分かるのですが、“重要なこと”を識別するのはとても難しいのです・・・なぜなら、「その“重要なこと”が重要である根拠」は、ゴールや目的の視点からのみ正当化され、説明可能なのであり、そしてそのゴールや目的は、自分自身の価値観から見出されるものだからです。「“重要なこと”は何か」に思いを馳せることは、少なくとも中長期に渡る目的を問うことであり、ひいては自らの価値観を見つめ直すことでもあります。重要度を考えずに目先のTo doに埋没する、すなわち“緊急である”という理由だけで高い優先順位を与えて行動することは、「一仕事した」というある種の充実感を伴う分だけなおさら、「本質的ではあるが突き詰めるのは苦しい人生の問いから目を逸らさせる」危険な誘惑なのかもしれません。

「この日にやらないといけないから」といったルーチンワークとしてのTo doではなく、「やると約束したから」という義務としてのTo doでもない、「ミッション→ビジョン→目的→目標→活動」という本来あるべき筋道を辿ったTo doに、今更ながら、しかし今こそ、取り組んでいきたいと考えています。To doの消化が怖れではなく、目的の達成に近づいていく喜びだと感じられた時こそ、自分が自分のミッションを正しく生きることができている証のような気がしています。

© 2015 Masao Kawasaki, All rights reserved.

「To doは目的に準じる」という当たり前だけど難しいこと・・・」への2件のフィードバック

  1. 最後の結論、本当にそうだと思い同感です。組織でも個人でも、何のために存在するのかという役割の自覚がMission、どうありたいかという意志がVision、その意志に沿って設定するのが達成したい目的(Goals)、目的に向かうための具体的なマイルストーンが目標(Objectives)、それに沿って活動(Activities)を設定するわけで、それがやる気のぶれない軸になるものと思います。そうはいかない雑用が多いわけですが、軸に沿っているTo Do項目は他と違い、元々気合がはいっているのに気づいていますが、そのことをずばり書かれたと感じました。
    最近読んだDyersのYour Erroneous Zoneという本では、自分が偶然居ると考えるよりも、役割があって生きていると考えるほうがなぜ良いのかということを、論理的に説明しています(と書かれています)。そこではVisionの代わりに意志(Intention)という言葉が使われていますが、Activitiesに至る構造は、我々の理解と同じであることがわかります。

  2. 川崎将男

    コメントありがとうございます。
    DyersのYour Erroneous Zoneという書籍、知りませんでした。「自分のための人生」という邦訳も出ているようです。今度、読んでみます。
    「自分が偶然居ると考えるよりも、役割があって生きていると考える」といったMission中心の生き方を中心とする思想は、Viktor Franklの「自分が人生に何を期待しているかではなく、人生が自分に何を期待しているかが問題なのだ」という言葉との共通性を感じます。
    雑用としてのTo doをいくら忙しくこなしていても、意味への空虚感を抑えきれない時があります。反面、その空虚感を、時には忙しさ、時にはたわいないお喋り、時にはお酒でごまかすような、精神的怠惰に陥っているのではないかという危機感も同時に感じています。それをLLとして表現し、今後の自らの生き方への指針としても生かしたいと考えて、この拙文を書きました。

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