作成者別アーカイブ: たなかふみあき

今ここに 集中すれば 道拓く

先を考えて不安で悶々とするよりは、ただひたすら今目の前にある仕事を一つ一つに集中して片付けていくことに注力していくと、そのうち道が拓けてくることもあるというお話し

落ち込んだ 自然に触れて 漲る気

休みなく仕事をやってもやっても、どうしようもなく、どうすればいいか悩んでしまうときがある。そういった時に森の中に入ってじっとその中で自然を感じたり、日本海をじっとながめて(いずれも何も考えず)一日いると不思議と気力が回復してくる といったお話し(わたしだけかも)

この事態 我に与えた 試練かな

綺麗な仕事を担当させてもらうことは少なく、いつも酷いものばかり。でも、考えようによっては天が与えた試練なのかもね、何か学ぶことがあるかもと、開きなおることも大事 というお話し

これ以上 悪くはならぬ 覚悟決め

最悪のプロジェクト、部門の立て直しを何度か担当したが、考えてみれば何をしてもこれ以上悪くはならないと思えば、気が楽になり思い切って動いた というお話

誠実さ 四面楚歌から 救いの手

日々の仕事に誠実に取り組んでいれば、困ったときにはなぜか救いの手を差しのべてくれる人があらわれる体験のお話し

救われた その一言が きっかけで

予想外に課長に昇格してしまった時にそれは始まった。
正確には課長扱いであった。(社内の)資格がまだ到達していなかったためである。
自分より前の世代の方がかなり退職されていたこともあり、若くしてお鉢が回ってきたというところであろうか。
その課は何年か前までは飛ぶ鳥も落とす勢いであったが、ここ数年は過去に出荷した製品のトラブルが多発して毎期赤字を出し続けている部門であった。社員の多くが各所のトラブル対応に出払っているという状態であった。
わたしは当時別の部門に所属していた。現地で苦戦していた大型案件に途中から入ってほぼ1年近くかけて落ち着かせ、次の開発を進めていた。その赤字部門に対しては批判的でその事業は止めたらと言ったこともあった。
だから、まさか自分がそこの部門の長に異動になるとは思いもよらなかった。口は禍の元である。
当然居心地は良くない。
それ以上に頭が痛かったのが、課長級以上の技術専門職だけでなく、主任クラスもみんな自分よりも年上のベテラン揃いであること。
その部門は自分の専門ではないので、どうしても彼らの話を聞きながら進めざるを得ない状況であった。
しかし、それをやっていてはスピーディに品質改善や赤字脱却への活動が進まないという悩みがあった。これまでの自分のやり方でやっても付いてきてくれないのでは、一緒にやってくれないのではないかと年上の方々への遠慮もあって苦悩の毎日であった。
そんな状態で2か月が過ぎようとしていたときに、前任の50代の課長(この方も全く別の部門から来られて1年でわたしに交代)から声をかけられて次の助言を頂いた。
「周りに遠慮せずに、自分の思うように、考えるようにやりなさい。
自分の考えでやってみて、ダメなら自分の考えがダメだったと納得もするし、反省して次に生かせるけど、周りに言われてやっても得るものないよ。」
これはわたしにはとてもありがたい言葉であり、これまでの悩みは吹っ切れて、精神的には楽になった。
それ以降、最後は自分の考え、やり方でやるようにして、徐々に赤字を減らして2年目の下期には赤字脱出を果たすことができた。
この一言を頂いた(ひと回り上の)大先輩には本当に感謝しており、今は自分より若い人たちに同じような場面があれば、この言葉をかけている。

荷物の置き忘れ

「座席、網棚、忘れ物なし!」
というのが、わたしの電車から降りるときの行動(指差呼称)です。さすがに大きな声では言いませんが。、
電車に荷物を置き忘れたことはありませんか?
長年、傘を含めて、電車に忘れ物などしたことがなかったわたしですが、50歳を過ぎた当たりから何回か置き忘れをするようになりました。座ったり、網棚に荷物を置いた時は、降車時にはふりかえることにしています。
最初の忘れ物は、都内の書店で本を買って、網棚に本の入った紙袋を置いたまま電車を降りてしまったことです。すぐに気づいて東京駅の遺失物センターに届けましたが、結局最後まで連絡はありませんでした。
2回目は百貨店で買った品物を手提げ袋に入れて、これまた網棚に置いて電車を降りる際に忘れてしまったことです。この時は、降りてすぐに気づいたのですが、ドアが閉まってしまいました。前回の経験があったのと、たまたま品川駅であったので、忘れ物承り所にすぐに駆け付けました。すでに2人ほど並んでいました。焦りはありましたが、仕方がありません。ようやく自分の順番になり、乗っていた列車(東海道線)と車両のどこに荷物を置いていたかを伝えました。電車はどんどん先へ進んでおり、次に確認するのは、浦和駅になるとのことでした。ダメもとで浦和駅まで行くことを伝えて電車に乗りました。浦和駅に到着して、受付窓口に行くと、忘れ物が何か、どういった袋か、など聞かれて、運よく見つかりました。しっかりと浦和駅までの乗車賃も取られました。
二度も忘れ物をしたこともあり、今まで忘れたことはないのに何が違うのかと考えました。
その結果気づいたことは、いずれもいつも持ち歩くカバンとは別に普段は持たない紙袋なり、手提げ袋なりを持っていたことで、それを網棚に置いたことでした。 普段のカバンはいつも通り肩にかけていました。
そして、いずれの時も本を読んでいたことでした。
電車が降りる駅に着いた時には、いつもの感覚でそのまま降りてしまったのです。
いつもの習慣が、他に荷物があることを忘れさせていたのです。
これ以来、普段のカバン以外に荷物がある場合は、普段のカバンも一緒に網棚に載せることにしました。そうすることで、普段のカバンを網棚から降ろすときに一緒に他の荷物にも気づくように意識的に変えました。
それ以来、網棚に忘れ物をすることは今のところなくなりました。さらに歳を取るとどうなるか分かりませんが。
降りる際の座席に対する指差呼称は、ポケットやカバンから小物が落ちて気づかずに降りようとする人を何度か見かけてから自分も気をつけようとして、追加したものです。
忘れ物をしてしまうと、完全に自分が悪いだけにショックが大きく、(わたしの場合は)自己嫌悪になってしまいます。
そうならないように、今日も「座席、網棚、忘れ物なし!」。

~田中史朗

駅のホームからの転落事故

その事故が起きたときには、一瞬何が起こったのか自分でも理解できなかった。
今まであった目の前の景色が上に流れていったのですから。
その事故が起きたのは、JR東日本の南武線のB駅でした。
いつも通り川崎方面に向かう駅のプラットホームで電車待ちをしていました。確か2列目に並んでいました。電車が到着して、降りる人が一通り降りたので、前の列の人が電車に乗り込んだのに続いて、わたしも片足を上げて電車の中に入ろうとしたその時、突然降り遅れたのでしょう、一人の男性が電車内から飛び出してきました。わたしは上げた足を電車内に入れることができずに、その手前に下ろしたようです。実はその時の記憶は全くありません。B駅では電車とプラットホームの間が、かなり空いており、また電車の乗降口と駅とも段差がありました。そういったこともあり、わたしの片足は、何もない電車とプラットホームの間にすっと入り込み、もう片足もかくんとなり膝が電車の車体にぶつかりました。幸いだったのは、大きなカバンが隙間に引っかかって、線路にまで落ちなかったことです。なんとか自分で這い上がり、電車に乗り込みました。ズボンは擦り切れて、ズボンの下の膝、脛には血が滲んでいました。
ショックだったのは、電車に這い上がろうとしてもがいていた時に、誰も助けてくれなかったことです。這い上がろうとしている横で平気?でみなさん電車に乗り込んでいったことです。
助けてください!って言わないわたしも良くなかったのかもしれません。   近寄りがたい雰囲気があったのかもしれません。
わたしはこの時以来、電車に乗り込む時には、降りる人がいないことを確認するまで、足を上げないようにしました。揚げ足を取られないように。?
足元には注意しましょう。

自転車事故

自転車事故の失敗談のお話をします。
子ども時代は六甲山系や生駒山地に長く住んでいたこともあり、自転車を乗り回す機会がありませんでした。
就職で東京に出来てからは、関東平野ということもあり、自転車での移動が増えました。(車を買っても残業と休日出勤ばかりのブラックの時代でしたので、自動車を買うことは結婚するまでありませんでした)
そうした中で、自転車事故の記憶として残っている失敗事例を3つ紹介します。
1)肉屋に突撃
細い歩道での自転車走行は避けて二車線道路の左を走行中、自動車が幅寄せをしてきたので、仕方なく歩道に上がろうとしました。しかし、段差がかなりあったことと、自転車の速度がかなり出ていたこともあり、自転車が歩道に上がりきれずに身体だけ歩道沿いの肉屋さんのガラス戸に勢い余って、突っ込んだことがあります。当然ガラスを割って、身体は肉屋さんの店内に。幸いお客様はいらしゃらなかったですが、お店のおじさん、おばさんはびっくり。幸い大きな怪我はなく切り傷程度で済みました。お店にはガラス代を弁償することになりましたが、実は私が初めてではないようで、またかと驚かれていました。これ以降、道路から歩道への乗り上げるときは段差には注意するようになりました。しかし、この後の失敗談にも書きますが、スピードの出し過ぎは未だに直りません。

2)トレーラに激突
昭和の時代。ソフトウェア開発の現場は今でいえばブラックなところが多かったです。フレックスもない時代、朝8時から夜中の2時半まで仕事をする生活がずっと続いていた時期があります。
その日は朝から雨が降っていて、夜になっても雨は止まず、かなり激しく前が見えないくらいの勢いで雨が降り続いていました。いつものように夜中の2時半に仕事を終えて、早く帰って寝ようと合羽を着て自転車に乗って隣市のアパートまでぶっ飛ばしていました。雨が激しく、前を見ていると眼鏡が水滴で見えなくなるので、合羽の帽子を深く下ろして視線は自転車の前輪を見ていました。深夜なので車はほとんど走っておらず、毎日走っている道なので、特に前を見なくても、車のライトだけ注意していれば良いはずでした。アパートと会社の中間地点の交差点を超えたところで、ふっと嫌な予感がしました。そういえば、昨晩帰るときに、このあたりに重機を乗せたトレーラーが止まっていたなあと。そして、前を見たときはもう遅かった。自転車はトレーラの後部に激突、わたしの身体は空中に飛び上がりました。「あ~、これで終わりかあ~。あっけないなあ~。」 幸い、この日は、トレーラの上には重機は載っておらず、またわたしの身体も、いい塩梅にトレーラの荷台のくぼみに背中から落下しました。全身打撲ですが、頭を打つことは幸いありませんでした。さらに落下直後に、トレーラの脇を一台の自動車が走り去って行ったので、もしトレーラに気づいて避けていたら、逆にこの自動車とぶつかっていた可能性がありました。幸運でした。しかし、自転車は無残にも前輪はひしゃげて90度に曲がってしまいました。全身の痛みをこらえながら、自転車をアパートまで引きずって帰りました。これ以来、雨の時は合羽を着て、前は必ず見て自転車に乗るようになりました。スピードは相変わらず出しすぎていますが。
この時の空中浮遊の感覚は未だに残っています。

3)凍結した路面のカーブで自転車が消える
1980年代は東京多摩でも雪が結構降って、積もった雪がひと冬残っていた時期もありました。その頃の話です。道路脇には何週間も雪が残って、道路はカチンカチンに凍結していた時の話です。
たびたび自転車の事故を起こしていましたが、スピードの出し過ぎは直りません。道路のカーブではバイクでもないのにバンク角を深くしてスピードを出したまま曲がっていました。その日はいつも以上に路面がツルツルになっていました。いつものようにスピードを出してカーブを曲がろうとしたら、凍結していた路面でバンク角を付けすぎたこともあり、遠心力で車体が斜めになったままスーと流れてガードレールに激突。わたしは自転車が足元から消えて道路の上にドスン。一瞬何が起こったのか分かりませんでしたが、後から自動車が近づいてきたので、慌てて道路脇へ。
丁度、この顛末を見ていた職場の同僚がいて、しばらく笑いものになりました。
こんな失敗を繰り返しても、スピードの出し過ぎだけは直らないのが、悩みの種です。自転車は安全運転で。