カテゴリー別アーカイブ: 挑戦とレジリエンス

ゐなか者 来ないフライト 待ちぼうけ?

いろはかるたの中程にある「ゐ」を使ってみました。それほど古くはないですが、年寄の自慢話の類に属します。1984年3月、30代の時です。お客様の現場をたくさん経験し、私は挑戦意欲満々。一介のSEなのに、プロジェクトの隙間でSE用のシステム開発ガイドを作りたくなりました。思い切って役員に上申したら承認されて予算がつき、半年ほどそれに没頭しました。この話はその時に強く認識した教訓です。

成果がまとまってきて、米国社内のエキスパートとのすり合わせを命じられました。エキスパートの方々の人選は、ダメ元で研究所(脚注*1)に出向いて、そこのマネジャーに快く助けてもらいました。紹介された人達は皆、後で斯界のリーダーとなられた方々で、的確な人選に今でも感謝しています。事前に電話、社内便、当時の社内eメールなどでやりとりした後、先方3名とそれぞれ面会し同意を得る形になりました。

次の図は汚いですが、自分用の日程表からその出張部分を切出したもの。クリックすると大きくなります。

出来事は16日のポケプシーで起きました。

行きの飛行機は小さなプロペラ機でびっくり。乗客は数名で操縦席が見えました。途中揺れまくるので、乗客の一人は「この古い飛行機を落ちるまで使うんだね」との冗談も。

ともあれポケプシーに到着。目的の建物をやっと探し出し、半日の打合せは無事に終了。その帰りです。雪が降りしきる小さな空港で20時のフライトを待ちましたが、それはなかなか飛んで来ません。1時間過ぎても来ないのです。他に旅客が誰もいないので心配になりました。公衆電話から航空会社に電話したら、なんと「フライトはキャンセルの予定ですが・・」。え?

「搭乗券は往復発行されたのに冗談でしょ、凍えそうなのですぐ来て欲しい。今日中にNYに帰る方法が他にありません・・・」。先方は「機体整備が遅れているし搭乗客は1名。車ではダメですかね?」。こちらは「夜遅いのでそりゃ無理、何とかお願いしますよ」。必死の頼みに「お客様、どちらから?」「日本の田舎から一人で・・」とか、だんだん雑談になりました。

そのうちに相手もしかたがないと思ったのでしょうか。しばらくすると「今機体整備が終わったので向かう。1時間ほど待ってください。」やれやれです!コインを食べまくる電話の操作も大変でしたがこの際は仕方なし。1人だけのために空港は閉じられなかったのですが、暖房はとっくに消されて寒いのなんの。しかし電話してよかった!もし何もしないとどうなっていたか?待ちぼうけの結果キャンセルが表示され、ゐなか者が夜中に宿を探す羽目になったかと思うとぞっとします。

そんなことは色々ありましたが、そこでますます確信したLessonsがあるわけです。「ダメ元で挑戦する」ことがなければ、こんなに珍しく、また本当は楽しい仕事の経験はできなかったでしょう、ということです。

ついでに古い資料ですが、日程表にたくさん挟んであった社内ITPS(国際テレックス処理システムだったか、忘れました)受信票の一例です。

発信者R.Taboryはワトソン研にいたソフトウェアの権威、一介のSEの求めに対し、気さくに迅速に応じてくれるのが凄いと思いました。ダメ元で挑戦してみるからこそ、初めて何らかの機会がやってくることを実感したのでした。

世の中は余裕も隙もない現代へと向かってきたように見えます。こういう恵まれた環境は今や多分どこにもないでしょう。しかし、ダメ元でやってみるという勇気は、物事を前に進めたりカベを打破したり、場合により苦境から立ち直るチャンスを作ることは確かです。今個人事業を始めて15年、好きなことを楽しみながら苦労を重ねていますが、この教訓がどこでも役立つことをしばしば確かめてきた次第です。

注*1: Japan Science Institueで東京基礎研究所の前身。当時千代田区三番町にあった。 Laszlo Beladyはそこのマネジャー。略称Les Beladyさんは世界中で長らくご活躍され、その後も何度かたいへんお世話になりました。

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救われた その一言が きっかけで

予想外に課長に昇格してしまった時にそれは始まった。
正確には課長扱いであった。(社内の)資格がまだ到達していなかったためである。
自分より前の世代の方がかなり退職されていたこともあり、若くしてお鉢が回ってきたというところであろうか。
その課は何年か前までは飛ぶ鳥も落とす勢いであったが、ここ数年は過去に出荷した製品のトラブルが多発して毎期赤字を出し続けている部門であった。社員の多くが各所のトラブル対応に出払っているという状態であった。
わたしは当時別の部門に所属していた。現地で苦戦していた大型案件に途中から入ってほぼ1年近くかけて落ち着かせ、次の開発を進めていた。その赤字部門に対しては批判的でその事業は止めたらと言ったこともあった。
だから、まさか自分がそこの部門の長に異動になるとは思いもよらなかった。口は禍の元である。
当然居心地は良くない。
それ以上に頭が痛かったのが、課長級以上の技術専門職だけでなく、主任クラスもみんな自分よりも年上のベテラン揃いであること。
その部門は自分の専門ではないので、どうしても彼らの話を聞きながら進めざるを得ない状況であった。
しかし、それをやっていてはスピーディに品質改善や赤字脱却への活動が進まないという悩みがあった。これまでの自分のやり方でやっても付いてきてくれないのでは、一緒にやってくれないのではないかと年上の方々への遠慮もあって苦悩の毎日であった。
そんな状態で2か月が過ぎようとしていたときに、前任の50代の課長(この方も全く別の部門から来られて1年でわたしに交代)から声をかけられて次の助言を頂いた。
「周りに遠慮せずに、自分の思うように、考えるようにやりなさい。
自分の考えでやってみて、ダメなら自分の考えがダメだったと納得もするし、反省して次に生かせるけど、周りに言われてやっても得るものないよ。」
これはわたしにはとてもありがたい言葉であり、これまでの悩みは吹っ切れて、精神的には楽になった。
それ以降、最後は自分の考え、やり方でやるようにして、徐々に赤字を減らして2年目の下期には赤字脱出を果たすことができた。
この一言を頂いた(ひと回り上の)大先輩には本当に感謝しており、今は自分より若い人たちに同じような場面があれば、この言葉をかけている。