年齢を重ねるにつれ、死について嫌でも意識しがちです。75歳が第4コーナー始まりとすれば、その次の年齢の節目は、いわばホームストレッチに入るということになるでしょうか。ホームはフィナーレでもありますが、暗闇でもあります。宗教には「来世」の概念があるようですが、「現代の日本人は死を世界で一番恐れる」との示唆(注1)は、日本人の多くが他国ほどは宗教に深く関わらないからとのようです。
だいぶ昔ですが、サイモンとガーファンクルの歌Sound of Silenceがヒットしました。学生の私の家庭教師先の1つであった、高2の教え子宅に行くと、彼は部屋でそれを聴いていました。そして「歌の意味」を私に尋ねました。
当時はすぐには調べられず、歌を聴きとって解釈することにしました。サイモンの詩は奥が深く意味が広く、聞き手により色々な解釈もされるようです。2人で考えた結果は、次のようになりました。
その時私は、「暗闇」とは「死」を指すのではないかと、ふと思いました。とはいえ、このデュオには過去にヒットがなく、表現を「聞いてくれない」世間への反感を著わしたのかもしれません。結局はその回の3時間全部これに使ってしまいました。それでも、彼が英語への興味を深める良い材料になったと後で思いました。私にとっては、それ以来時々死の意味を考えるきっかけとなった曲でした。もちろん一般的解釈とは異なるかもしれませんが、、。
「何もない暗闇に戻る」という感覚は、逆に今生きていることの特別な大事さを感じさせます。数年前に人気を博した小川糸「ライオンのおやつ」という小説には、ホスピスで死を迎える人達の話が明るく描かれていますが、それに少し似た様な感じもあります。著名な古典の吉田松陰の「留魂録」やフランクルの「夜と霧」、教養としては斎藤孝「極上の死生観」など、良い書籍が多いと感じます。そして、大津修一「死ぬときに後悔すること25」は実際の緩和医療に基づくインパクトのある書籍だと思います。
私達は、日常、死について語ることを避けがちです。その余り語られない沈黙の中での思考や見聞が、個人の死生観や存在意義への認識を作るのではないでしょうか。ポジティブな死生観は、生きている時間がいかに大切かという自覚を大いに強め、年齢に拘わらず前進する意欲を持たせてくれるものではないでしょうか。個人が見出す人生の究極の目的と併せて、考え方と行動のブレない軸を形成するものだと考えます。

冨永先生
小生は、ほぼ、10年前に、請われて福祉専門学校の常勤講師をしたことがありました。(1)人間の尊厳と自立〜(9)国家試験対策と9の科目を受け持つ1年契約でした。
専門学校が、福祉施設の中に設置されており、そのとき老いの実態を観る機会が多く、死と隣り合わせの人達を、毎日近くで観察することも多く死を意識せざるを得なくなりました。
また、その間に、知り合いの配偶者が、末期がんになり、それを知って、神経波磁力線発生装置(正木和三氏が、”未来への発想法”のなかで、自信作だと自負していたもの)を貸してあげようか?と提案したのですが、医師なので無理と言われてしまい。正木先生自体は、魚群探知機や、自動ドア、CTスキャン、電気炊飯器などを発明した人なので機械は間違いないし、その後、薬事法違反のおそれありとのことで製造中止になるも、いまだにネットオークションでは人氣がある様なので貸してあげようか?とたずねるも、冗談はや
めて!と反撃されてしまい。非常に 気まずくなりました。)
その後その配偶者は亡くなりますがなんとも、もっと気まずく
なってしまいました。一年は、職責を果たしたので退職しました。
あの1年以来、死について多くを考えるようになりました。
ところでサイモン&ガーファンクルですが、小生も1年浪人していた時に、聞き込んだことがあります。サウンドオブサイレンス ミセスロビンソン コンドルは飛んでいるなどよく聞いた覚えがあります。歌詞の意味もわからずに聞いていたのですが、そこには奥深いものがあったのですね🙂
岡田様 コメントを有難うございます。貴重なご経験をお持ちなのに敬服します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。